江戸時代

徳川家光に諫言しすぎて嫌われた 青山忠俊の心 ~「東京・青山の由来」

青山忠俊とは

青山忠俊の心

画像 : 青山忠俊の肖像 public domain

青山忠俊(あおやまただとし)とは、徳川家康秀忠に仕えた譜代の家臣で、特に2代・秀忠の信任が厚く、幕閣の中枢を成して徳川幕藩体制の基礎作りに尽力した人物である。

家光の傅役(もりやく ※お守り役)として、土井利勝酒井忠世と共に教育係を務めた。

忠俊は、若かった家光に「3代将軍として立派な人物になって欲しい」と願い、厳しくも愛情を持った諫言を度々していたという。

忠俊は、傅役を離れた後も家光のことを気にかけ、親のような思いで諫言や苦言を呈したが家光には通じなかったようで、段々「目の上のたんこぶ」のような存在となった。

その後、満を持して家光が3代将軍に就任したが、その2か月後、忠俊にまさかの事態が起きる。

今回は、青山忠俊の生涯と、東京「青山」の由来について解説する。

出自

青山忠俊は、天正6年(1578年)徳川家康の譜代家臣・青山忠成の次男として浜松で生まれた。

青山家は元々三河国の国人で、祖父・青山忠門から松平広忠(家康の父)と家康に仕えた。
しかし、元亀2年(1572年)忠門は武田信玄との戦いで討死にし、忠俊の父・忠成が青山家の家督を継いだ。

父・忠成は家康からの信任が厚く、天正13年(1585年)に家康の三男・秀忠の傅役に命じられた。

青山忠俊の心

画像 : 徳川秀忠像(徳川記念財団蔵)wiki c

父・忠成は、関ヶ原の戦いでは秀忠軍に属し、本戦に遅参したが、慶長6年(1601年)に常陸国江戸崎1万5,000石で大名の仲間入りを果たし、後に2万5,000石に加増された。

忠俊は小田原征伐で初陣を果たし、兄が早世したために嫡子となった。
最初は家康に仕えたが、秀忠の傅役だった父と共に、秀忠に仕えるようになる。

慶長8年(1603年)に5,000石となり、慶長12年(1610年)秀忠の命で、土井利勝酒井忠世と共に家光の傅役に命じられた。

父と同じ、将軍の嫡男の傅役に就任した忠俊の気持ちは、いかばかりであっただろうか。
おそらく、「こんな名誉なことはないので、頑張って家光様を立派な将軍にしよう」と思っただろう。

諫言

この頃、秀忠と正室・お江は、家光よりも弟・忠長を寵愛していた。

青山忠俊の心

画像 :  徳川忠長(秀忠の三男) public domain

忠長は容姿が良く活発な子だったが、家光は内気な性格で、お江はあまり可愛がらなかったようだ。

忠俊は「このままでは、次期将軍は忠長様になってしまう」と危機感を抱いただろう。
そのため忠俊は、愛情を持って次期将軍としての教育を行なっていった。

だがその教育は厳しかったようで、あまりの厳しさに家光は不平不満をこぼした。
しかし忠俊は自分の刀を置いて「言うことを聞き入れぬなら、この青山の首をはねてから好きなようになされよ」と迫ったという。

忠俊には、強い信念があったのだろう。
家光のために耳の痛いことも言うようになった。

若い頃の家光は、小姓たちとの男色に耽っていたというのは有名な話で、若衆歌舞伎に傾倒し派手な格好を好んでいた。
当時、流行していた派手な短い羽織・そして化粧と傾奇者顔負けの姿で、江戸城の外に出ていたのである。

そんな家光に忠俊は「これから天下を治める人がはしたない格好をしていては、国の乱れとなる」といったような諫言をしていたようだ。

目の上のたんこぶ

元和2年(1616年)大御所として実権を握っていた家康が亡くなり、2代将軍・秀忠の本格的な治世が始まる。

秀忠からの信任が厚かった忠俊は老職(老中)に就任し、元和6年(1620年)に武蔵国若槻藩4万5,000石に転増封となった。
傅役を離れた後も家光のことを気にかけ続け、必要とあれば、その都度家光に苦言を呈していたという。

しかし、そんな親のような忠俊の思いは家光には通じていなかったようだ。
自分のためを思っての諫言だと理解できれば甘んじて受け止めることができるのだろうが、それが理解できないうちはただ文句を言われ続けているだけと思ってしまう。

それ故に家光からすれば、忠俊は忌々しい「目の上のたんこぶ」のような存在であった。

青山忠俊の心

画像 : 徳川家光像(金山寺蔵、岡山県立博物館寄託)wiki c

元和9年(1623年)家光は正式に3代将軍に就任した。
そして就任からわずか2か月後の同年10月、忠俊にまさかの処分が下る。

なんと突然忠俊は老中職を解任され、しかも上総国多喜藩2万石に減転封となってしまったのである。

さらに、寛永2年(1625年)には除封されて下総国網戸・相模国溝郷・遠江国小林を経て、相模国今泉にて蟄居・謹慎の身となってしまった。

忠俊は、この処分に対して何の言い訳も抗議もせずに領地を返上し、蟄居・謹慎を受け入れた。
これは全て、忠俊の言動が理由だったようだ。

忠俊は愛情ゆえに厳しく接し続けたが、結果的には家光の勘気を被り、幕閣の中枢から姿を消したのである。

改心した家光

しかし、忠俊の教育は間違ってはいなかった。

時が経ち、家光は自分の至らない振る舞いに気付いて猛烈に反省したという。

秀忠が亡くなった直後の寛永9年(1632年)家光は忠俊を赦免した。さらに忠俊の蟄居に連座していた忠俊の息子・宗俊を旗本にし、忠俊本人にも幕閣中枢への再出仕を要請したのである。

しかし、忠俊は「それでは上様が間違っていたと認めたことになります。それはあってはならないことです」と再出仕の要請を断り、寛永20年(1643年)享年66で亡くなった。

東京「青山」の由来

天正18年(1590年)小田原征伐の後、家康は豊臣秀吉の命で関東への領地替えとなった。

家康は江戸に本拠を移すことになったが、江戸入りに際しては家臣の新しい知行割を発表し、家臣の住居の整備も行った。

当時の江戸は、広大な湿地帯であった。

そのため何の気まぐれなのか、家康は傍らにいた家臣に「馬で走った分だけ、その土地を屋敷にしてやる」と言ったという。

家康なりの即興のお楽しみだったのかもしれないが、その話を真に受けて恩恵を受けた男がいた。

それが忠俊の父・青山忠成だった。

忠成は、やる気十分で馬を走らせて、広大な土地を手に入れたのである。
こうして建てられた青山邸は、かなり大きかったと言われている。

その青山邸があった場所が、現在の東京・青山なのである。

画像 : 青山通りの表参道交差点。原宿方面の眺め wiki c Rs1421

おわりに

青山忠俊は、家光から再出仕の要請があっても固辞して再出仕しなかったが、申し出があっただけで十分だったのではないだろうか。

忠俊にとって一番大事だったことは「家光の成長」であり、家光が改心した時点でその目的は達せられたのである。

後に家光は、忠俊の子・宗俊に「若気の至りで忠俊の心が分からず罰してしい、深く後悔している」と話したという。

上様、もうこれで十分です」と泣きながら言う忠俊の声が聞こえてきそうだ。

参考文献:「名将言行録」「徳川四天王」「改易・転封の不思議と謎」

 

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コメント

  1. アバター
    • M
    • 2023年 9月 22日 12:02pm

    このお話しは知りませんでした!
    ありがとうございます!

    いつも楽しみに記事を読ませてもらっております!!

    3
    0
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