平安時代

北条義時とは 〜北条得宗家を作った「鎌倉殿の13人」の覇者

承久の乱

※三代目将軍 源実朝像

3代将軍・源実朝は、公家政権との融和を図って朝廷からの官位昇進を願うことが多く、それに御家人たちの不満が上がる。

建保7年(1219年)実朝の右大臣拝賀式が鎌倉の鶴岡八幡宮で行われ、太刀持ちには義時がするはずだった。

義時は体調を崩し、代わりに源仲章が太刀持ちになったが、2代将軍・頼家の子である公暁が実朝を暗殺して、太刀持ちの仲章も殺してしまう。

義時は難を逃れたが、余りにもタイミングが良すぎて裏で暗殺事件を操っていたのではないかと疑われる。

実朝には跡取りがいなかったので源氏の正統はここで途絶えてしまうこととなった。

北条氏は元々桓武平氏を称していたので、最終的には平氏が源氏を滅ぼしてしまうことにつながってしまうという、まさに因果応報だ。

義時と政子は次期将軍に後鳥羽上皇の皇子・雅成親王を迎えようと画策するも、実朝と通じていた後鳥羽上皇は「実朝暗殺に北条の影ありで、そんなことをすれば日本を二分してしまう」と断固拒否する。

そこで義時と政子は藤原摂関家の当時2歳の頼経を迎えて、4代将軍として政子は後見の「尼将軍」として鎌倉殿の地位を代行する。
政子を義時が補佐して鎌倉幕府の実権を掌握する、執権政治がここに確立する。

これ以降将軍はお飾りのようなものになり、北条氏による執権政治が幕府滅亡まで続くことになる。

※後鳥羽院像

その後、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との対立が深まり、義時は承久2年(1220年)に京都守護として義兄・伊賀光季と娘婿・大江親広に後鳥羽上皇の動きを警戒させる。

一方、後鳥羽上皇は承久3年(1221年)5月14日に流鏑馬ぞろいと称して諸国の兵を招集して、伊賀光季を殺して倒幕の兵を挙げる。(承久の乱

翌15日には義時追討の宣旨を全国に発布して、諸国の守護・地頭に上皇の元に集まるように命じた。

天皇からの宣旨は朝敵を意味し、過去宣旨を受けた者は生きていたことがなくそれだけ絶対的な命令であった。
集まった後鳥羽上皇軍には幕府の有力な御家人たちもいたのである。

鎌倉の御家人たちは朝敵となることに大きな動揺を見せ、名指しで朝敵にされた義時は生涯最大の危機に直面する。

※北条政子

弟・義時の危機に尼将軍の政子は動揺する御家人たちを鎌倉に呼び「亡き頼朝の恩は山よりも高く海よりも深い。逆臣の上皇によって不義の宣旨が下されたが上皇方に裏切った奴らを討って亡き実朝の遺跡を全うせよ、ただし上皇側につきたい者は申し出て良い」と声明を発表する。

この言葉によって動揺した御家人たちの不安は収まり、幕府軍の軍勢は19万を超えて大軍勢で京へ攻め上がる。

約1か月に及び戦いは幕府軍が圧倒して。敗北した後鳥羽上皇は隠岐島に流されて、皇族・公家の莫大な荘園や倒幕に動いた御家人たちの領地を幕府が没収した。義時は恩賞として戦功のあった武士たちにそれを与え、幕府は京の監視に六波羅探題を置いた。

幕府軍の勝利によって義時は反義時・反政子の勢力を一掃することになった上に、義時は多くの御家人を西国に住ますことに成功し、幕府の勢力拡大を図ることに成功する。

これで義時の執権政治はより強固なものとなり、最高権力者としての地位は揺るがないものになったのだ。

義時は承久の乱の翌年に、何故か陸奥守と右京権大夫を辞職して無官となって元仁元年(1224年)衝心脚気のために62歳で急死する。

伊賀氏の変

幕府最高権力者の急死ということで、伊賀の方の毒殺ではとの憶測も呼ぶが真偽は定かではない。

義時は正室の子でなく、継母・牧の方の陰謀などに苦労したので、政子は義時の跡継ぎに六波羅探題の泰時をすると決める。

伊賀の方は自分の息子・北条政村を執権にさせようと三浦義村の協力を画策する。

それを知った政子は三浦義村の邸を訪ねて泰時の人望を説き、義村は泰時への忠誠を誓った。
政子は伊賀の方を伊豆に追放して後継者問題は終わる。

泰時は義時の遺領配分を、自分の分を少なくして弟たちに分け与えると政子に提案して感心させる。

義時の別称は「得宗」と呼ばれていたために、泰時からの北条氏の嫡流は得宗家と呼ばれるようになった。

北条執権政治は義時以降は、得宗家が継ぐことが正統化されていくことになる。

北条氏の頂点は得宗家で、執権には代々得宗家が就き、急死や病気などの時は一時的に政村たちが就くという北条氏内の決まり事が、鎌倉幕府が滅亡するまで続く。

北条執権政治の礎

伊豆の豪族の息子だった北条義時の人生は、姉の政子が源氏の嫡流で流人の源頼朝と結婚したために一変してしまう。

源平合戦で平氏を滅亡させることに尽力すると、義時には鎌倉幕府内の権力争い「鎌倉殿の13人」が待っていた。

謀略・知略・暗殺という誰が敵で誰が味方かわからない中で、常に命の危険と隣り合わせという過酷な勢力争いの末に、北条義時と姉の北条政子は勝ち続けて最高権力者になる。

しかし、義時に安静な日々はなく朝廷という最大の危機に直面したが、姉・政子によって助けられ北条執権政治の礎を築いたのだ。

関連記事:
後鳥羽上皇はなぜ「承久の乱」を起こしたのか?
北条政子の尼将軍と呼ばれた人生 「日本三大悪女」
源頼朝は伊豆の流人からどうやって将軍になれたのか?

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コメント

  1. アバター
    • 歴史大好きおじさん
    • 2021年 12月 22日 6:19pm

    来年の大河の主役・北条義時、脚本家は圧倒的な悪いヤツにしたと語ったが、本当に悪いのはこの記事を読むと父の時政でしょう。
    この時代は父や兄になかなか反抗出来なかったはず、義時の本音の記事も読んでみたい。
    来年が楽しみです。

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