西洋史

【ナチス・ドイツ狂気の全貌】ホロコーストについて調べてみた

ホロコースト

ホロコーストとは=ナチスドイツがユダヤ人達に組織的に行った大量惨殺の事である。

ナチスは「ユダヤ人」全滅目的収容所に処刑用ガス室をつくり、大量虐殺を行ったのである。

このような狂気の惨劇はなぜおきたのか。どうやって行われていたか。「悲劇の政策」などを時代を追って調べてみた。

スーパーインフラ状態のドイツ・そしてナチス政権へ

1914年第一次世界大戦の最中、一人の男に焦点をあてなければならない。
アドルフ・ヒトラー」この男抜きでホロコーストは語れないであろう。

彼は(1889年~1945年)オーストリアで産まれる。彼はこの時は「大ドイツ」の軍人とし入隊するためミュンヘンに引っ越す(ドイツ国籍を持っていなかった為)1914年バイエルン予備歩兵第16連隊に「志願兵」とし入隊している。そしてドイツは戦争に敗北を機する。

1918年ドイツは「経済的制裁・多額の賠償金」等背負い、誰もが苦しい時代を迎える。
国民全体が仕事と食事の為、町中に長蛇の列を作り溢れかえる・・過酷な毎日である。
そこでヒトラーはナチス党=「国家社会ドイツ労働党」をつくり、ドイツ国民に対し「強大な指導力、純粋な人種」である理想国ドイツの立て直し、仕事を与えるとマニフェストをたずさえ公にたつのである。

ヒトラーの「純粋な人種」とはアーリア人こそ、どの民族よりも優れた人種である
背が高い・金髪・青い目のドイツ人の事であった。そのため中央・東ヨーロッパのスラブ人・ロマ人・特にユダヤ人は最大の敵であり、1918年戦争に負けたのも彼らのせいだと大衆に対し叫んだ。

1920年、ヒトラーのナチス党は支援部隊S・S突撃隊)を結成し、特にユダヤ人達に暴力をふるう様になるのである。彼の支配は「憎しみ・妬み・恐怖」を人々に植え付ける危険なものであった。

1933年1月、ヒトラーはドイツの首相になる。「ベェルサイユ条約」により失ったものを我がドイツの手に!!と当時「ドイツの救世主」として国民の人気を集め独裁への道を歩み始める。

それは暗黒時代の始まりであった。

暗黒時代 ユダヤ人迫害・クリスタルナハト(水晶の夜)事件

1935年ヒトラーは「ニュルンベルク法」を作り、反ユダヤ主義を確固たるものにする。
ユダヤ人からドイツ市民権を奪う・ユダヤ人同士の結婚禁止・公共の場の制限(学校等)「黄色い星の腕章」を義務つけ、占領した国々でも同じく強行していくのである。

同年、ヒトラー親衛隊S・S。保安隊S・D 秘密国家警察ゲシュタポ結成と凄まじいまでのテロ・ユダヤ人に対しての弾圧・惨殺が始まるのである。

1938年11月8日「クリスタルナハト(水晶の夜)事件」勃発する。
17歳のユダヤ少年がドイツ大使を殺害=ナチによる周到に練られた殺害事件だった。

1938年11月9日、ゲシュタポ長官ハインリッヒはドイツ中の警察に電報を打つ。「まもなくユダヤ人とシナゴーク(聖堂)に対する攻撃が始まる、邪魔をするな

48時間のうちに1000以上のシナゴークが焼かれ、7000件に及ぶユダヤ人の商店・企業が破壊され、96人のユダヤ人が殺され、学校・家まで焼かれた。

3万人のユダヤ人が逮捕されたのである。この事件は「ユダヤ人殲滅」へと変貌する歴史上のターニングポイントとなるのである。

絶滅収容所建設とユダヤ人大量惨殺 承認されたヴァンゼー会議

1942年1月20日「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の全体的解決」として会議が開かれる。

「ここ数ヶ月のユダヤ人絶滅政策」が承認された「ヴァンゼー会議」である。

※下記は6つの絶滅収容所(ヘウムノ収容所は合わせて34万人ともいう説もある)

  起動期間   死者総数   惨殺方法
  ヘウムノ 19411945  145301  排気ガス殺
  ヘウムノ 19441945     7176    ガス殺
  ソビブル 19425月~10  25万人    ガス殺
 トレブリンカ 19421943  7090万人    ガス殺
 マイダネウ 19421944  125000    ガス殺
 アウシュビッツ 19421944  110   青酸ガス

死の行進 そして終焉

※「全滅収容所で使用された 青酸ガス・ツィクロンB」

1944年~45年の冬、ナチスの敗北は確実になってきた。収容所の隠ぺいとドイツ軍は労働力が必要だった為、真冬に西方にある勢力範囲への行進を強制されたのである。

「死の行進」の生存者~スティーブン・スプリングフィールドさんの回想~

「雪の降る寒い時で私は、殆ど歩けなくなった弟を必死で抱えて歩いた。悲しい事に、弟はこのまま置いていってくれと哀願した。(中略)誰であれ歩けなくなった者はその場で、射殺されそこいら中に死体となって転がっていた。諦める訳にはいかなかった。私が弟から離れればすぐに撃ち殺される。私は弟を抱えて歩いた」

終焉

1944年8月12日 1番始めにマイダネク強制収容所に入ったソ連軍であった。
その時の通信員はこう報道している。

「収容所の中央には、巨大な建物が建っており、工場のような煙突があった。これは世界最大の焼却炉であり・・ここのガス室には一度に250人を殺す能力があった。ガス室には人々が、限界まで詰め込まれたため窒息した後も死体は直立したままだった」

1948年国連は「世界人権宣言」を交付する。

何十年も経た今だからこそ、もう一度「戦争の悲惨さ・惨さ・命の尊さ」について考えるべきだと強く思うのである。

 

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総一郎

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コメント

  1. アバター
    • A
    • 2018年 7月 31日 3:32pm

    もう少し勉強したほうがいいですよ
    語句の間違いが多すぎる

    1
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  2. アバター
    • ちょっとだけ……
    • 2020年 9月 03日 1:30pm

    >17歳のユダヤ少年がドイツ大使を殺害=ナチによる周到に練られた殺害事件だった。

    これは聞いたことがありません。ナチスドイツ同様にユダヤ人迫害をしていたポーランドが、ドイツ在住のポーランドのユダヤ人の旅券を使えなくしてしまったので期限を過ぎたらポーランドに帰国できなくなってしまうため、怒ったドイツが無理やりドイツ在住ポーランド系ユダヤ人を駆り集めポーランド領域に強制的に放逐しようとし、しかしポーランドが入国を拒否したので、困り果てたポーランド系ユダヤ人が無人地帯をさまよう羽目になったのです。その中のひとりグリンシュパンという人がパリ在住の自分の息子に連絡を取り窮乏を訴えた。怒ったこの息子が、パリのドイツ大使館に拳銃持って訪れ大使館のフォン・ラート書記官を撃ったのです。これをナチスのゲッベルスかハイドリヒがユダヤ人迫害のチャンスに変えたわけです。なので、グリンシュパンくんによる大使館員殺害は、別に周到に練ってなんかいません。この程度、Wikipediaにすら書いてありますよ。何れにしても、ユダヤ人迫害はともかく、グリンシュパンくんの行動に用意周到に練るような部分はどこにもありません。そもそも、この水晶の夜事件自体、突撃隊やユーゲントは快感だったかも知れないけど、ナチス政権内では評判悪かったのです。ドイツ人一般市民も流石にこれには引きました。だってなんにも悪くないユダヤ人を殺したり強制収容所に入れたり、一切法的根拠はないのですから、あまりに無茶苦茶すぎます。それでもっとちゃんとユダヤ人迫害をするようになっていくのです(「ちゃんとユダヤ人迫害」って意味わかりにくいですけど、偶発的にやらず政策として実施していくという意味です)。個人的にこの水晶の夜事件をやらかした主犯格はゲッベルスだと思いますけどね。ハイドリヒは保安警察長官として何にもしないわけにもいかないので、うまくことが運ぶように手配しただけのように見えます。

    すみませんね、たまたまTwitterで検索してたら見つけちゃったので。

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