「大人になってから、三角形の面積を求めることなんか一度もない」
「サイン、コサイン、なんの役に立つ?」
「数学なんて、社会で何の役にも立たない。足し引き掛け算くらいでよい」
よく耳にしますね、こんな感じの「数学不要論」。
確かに「理系」でありかつ物理学研究やっている私も、三角形の面積は求めません。
しかし敢えて言わせてもらいます、「数学ほど社会で役に立つ科目はない」と。
目次
「えっ!?」のち「ん??」な無価値情報が拡散する背景とは
2020年の年の瀬、ネット界隈で大拡散したのがこれ。
言われていること自体は、2020年の誕生日がこれから来る人以外の人には当てはまる、当たり前の内容。
でも、「次が1000年後」に感情が揺さぶられたのか、驚きと共にシェアする人続出しました。
あなたのタイムラインにも来たのではないでしょうか?
これに関しては、内容が当たり前なだけでデマと呼べるかどうかも微妙です。
特段の害もなく、シャレで済むかもしれません。
しかしネットの世界では、得てして大小さまざまのデマ情報が、今こうしている間も絶賛拡散中。
そこに共通するのは、感情を揺さぶる文字や記号、そして画像情報です。
中身が正しいかどうかは二の次です。
「興味を引く内容、面白い情報はとりあえず広めたい」
「きっと他の人にとっても面白いはずだから」
中には差別意識に基づくものがあったり、犯罪被害者に対する誤情報流布で逮捕者が出たこともありました。
厄介なのは、この西暦ネタにもみられるように、一般的にデマの拡散は悪意をもってなされない、という点です。
そのほとんどは人々の興味や好奇心、そしてむしろ善意によって引き起こされます。
その背後にあるのは、社会の中で存在を認められたい「承認欲求」と、それと表裏一体の「同調圧力」でしょう。
承認されたいあまり、過分に自己主張などせず、そこに集まる人々の空気を読んで合わせるバランス感覚が、自然にそしてある意味必然的に養われる。
皆が周りを気にしつつ感情を押し殺し、意見を言わず、感情を発露せず。
そんな時、誰かがボソッと何かつぶやく。
するとどうしたことか、皆がそれに同調し、一気に大きな流れができてしまう。
それがどんなに浅はかで一方的・短絡的な考えであっても、大勢が同じ方向でそろってしまい、もはや流れを押しとどめることはできない。
2020年末の拡散ネタには、このような背景があったのかも知れませんね。
「文系だから」の言い訳を生む、教育のひずみ
現代の日本の学校教育では、小学校低学年の段階から競争システムが導入されます。
いつだったかのTV番組で、日本の小学校を視察したフィンランドの小学校長が、日本の小学校教育を痛切に批判しておりました。
それは、視察先の小学校で行われた徒競走でした。
もちろん、生徒にはゴール順に順位がつけられます。
私も運動会で何度も経験しました。
日本の小学校でごくありふれた風景ですね。
ちなみに私は足が速かったので、常に1位を争っていました。
上位に入る面子は大体決まっているので、その中であいつに勝ったとか負けたとかを常に意識していました。
しかし上位の常連がいるということは、おそらく下位の常連もいるのでしょう。
当時の私には、そういう人たちのことなど完全に意識の外でした。
件の視察団のフィンランドの校長は、まさにこの下位の生徒に想いを馳せるのでした。
競争原理の弊害とは
フィンランドの校長は「子供たちを競わせることで、運動ができない子はビリという烙印を押される。それにより運動嫌いになるのでは」と危惧しました。
それに対し、訪問を受けた側の日本の小学校の校長は反論します。
「自分の目標に向かって努力することが大事。子供は自分と戦っているのだ。」
これに対し、フィンランドの校長はこう言います。
「順位が少しくらい上がったと言ったって、それが何になるのか。子供たちが運動を好きになり、将来健康を維持するために走ったりすることが、このような大会の本来の意味なのでは?」
学校で量産される「算数嫌い」
小学校では、算数以外にも国語や社会、理科など、様々な教科が教えられます。
では、算数とそれ以外の科目とを分ける大きな違いを1つ挙げるとしたら、それは何でしょうか?
それは、算数においては知識よりも概念やしくみの習得により重きがある、ということです。
足し算を例に挙げましょう。
ご存じのとおり足し算の式は「+」の記号をはさんで数字が並びます。
数字を「足す」ことの意味とやり方を教え、実行し、その結果を「=」に続いて右に書き足します。
当然ながら「+」記号の両サイドの数字の取り方により、問題の種類は無数にあります。
その無数の問題の答えを1+1、1+2と順番に覚えるでしょうか?
もちろんそんなことはしませんよね。
足し算の意味とやり方を習得したら、あとはそれを問題ごとに適用していくのみ。
ここに、知識の習得とは質の異なる独特の能力が求められます。
当然、その能力の習得の速さには個人差があるでしょう。
小学校低学年の段階では特に、それが遅い生徒に対して個別のケアが必要でしょう。
もしそれがなされず、ケツ(試験の時期)だけが決まっていて、それまでに習得できない生徒は落第生、つまり「ダメな子」の烙印が押されるとしたらどうでしょうか。
この繰り返しの中では「自分は算数が苦手」という意識が生まれるのは、もはや必然でしょう。
この初等教育段階での意識形成が固定化され、その後に続く数学教育・理科教育にも尾を引き、本来得られていたはずの数学的素養が実際に損なわれる現実があるとすれば、それは大変大きな問題ではないでしょうか。
つけ加えると、いわゆる「理系」学生が「文系」科目への苦手意識を口にするケースよりその逆、つまり「文系」学生が「理系」科目への苦手意識を口にするケースの方が圧倒的に多いように感じます。
そして、その苦手な理系科目を忌避する結果として、文系コースを選択する現実があります。
さらにまた、大人になってからですらも、何か問題にぶち当たった時「私は文系ですから」という逃げが実際成立する実態には、是非とも解決されなければならない背景があるように感じられるのです。
村上春樹氏が指摘する、ネット社会の危険性
数学(算数)や理科、物理といった科目の修得で身につくのは、一言で言うと「科学的思考法」です。
道理に従い筋道立てて論理的に考える、ということですね。
「考え方」そのものがどうであるかが問われるのです。
「今の時代は、SNSやインターネットによって、意見がどんどんマス(集団的)なものになるじゃないですか。そういう時代にこそ、マスにはならない「個の声」の方が、僕は大事だと思っているのです。(中略)元々日本人には、周囲を見ながら話をして、全体から外れるようだとたたかれてしまう面があります。」
(村上春樹、ダイアモンドオンライン)
TVの通販番組やバラエティ番組でバックに流れる、大勢の人の「えぇ~」という驚きの声や笑い声。
視聴者がその番組の中の、どのポイントで驚き、どのポイントで笑うべきかを教えてくれます。
そして、スタジオに並ぶタレントやコメンテータの発言、それにより番組の方向性が定められます。
皆が笑っているから面白い、怒っているから自分も腹が立つ、涙ほろりで自分も悲しくなる‥。
ここにあるのは、番組制作者の意図に沿って人為的に作られた感情の連鎖反応です。
それが意図的だと分かっていたとしても、レールに乗っかっている方が「楽」だから文句が出にくい。
そこにまた制作側はつけ込めるわけです。
客観評価脳を作る
重要なのは「自分で感じ、自分で考える」、そして「いかに考えるかを考える」、この姿勢ではないでしょうか。
それが可能な人が増えれば社会は落ち着き、全体として「冷静な集団」になっていくでしょう。
そのためにこそ、「冷静で客観的評価をする脳」、つまり科学的思考が求められる、と思うのです。
もちろん、数学や物理を人並み以上に勉強すれば自然と客観評価脳が出来上がる、というわけではありません。
そんな単純な話ではないのです。
学校教育について言うならば、そのレベルでの数理系の素養の重要性は上述の側面から見直されるべきではないでしょうか。
あともう一つ付け加えるとすれば、「群れて安心」してないか、の自己チェックでしょうか。
この社会においては、いかなる集団にも属さず生活する、というのはまず不可能です。
であるならば、今所属している組織が自分の人生においてどんな意味を持つのか、不要な「同調圧力」を受けていないか、考えてみるのは無駄ではないでしょう。
「私はどんな組織にも属していませんよ」と言ったところで、ネットで双方通行のSNSの一つもやっていれば、それはもう、組織に属しているようなものです。
帰ってくる個々の反応、コメントからシェア、「いいね」に至るその一つ一つまで、自分の投稿に対しどんな応答があるのか、常に気になり暇があればスマフォ画面をのぞく日々。
この状況でいかなる「同調圧力」もはねのけ「承認欲求」も飲み込む、というのは困難極まるでしょうね。
存在を示し必要な意思疎通はしつつもハートは譲らないドライな関係に抑えておくこと、これが重要なのではないでしょうか。
最後に、政治家が学校教育について「足し引き掛け算だけでOK」的なこと言い出したら要注意です。
そこには「ものを考えない」、号令に言いなりの(権力に都合の良い)国民を作りたい意図が見え隠れするからです。
参考:『村上春樹、ダイヤモンドオンライン』
文 / 種市孝
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