愛する人と1つになりたい…。
恋をした人間の多くが抱くその気持ちを、この上なく身勝手かつ残酷な方法で叶えようとした男こそが、増淵倉吉だ。
増淵倉吉は、1932年に常軌を逸した殺人事件を起こした。
被害者の女性の遺体から頭部が切断され持ち去られていたことから、増淵が起こした事件は「首なし娘事件」と呼ばれるが、他にも女性を象徴する部位が取られており、その後に見つかった頭部も著しく損壊されていた。
なぜ増淵はそのような凶行に及んだのか。それはあまりにも利己的な欲求を満たすための犯行だった。
今回は首なし娘事件と、犯人の増淵倉吉について詳しく解説していく。
事件発覚
「首なし娘事件」が発覚したのは、1932年2月8日の午後5時ごろだった。
愛知県名古屋市西区の農家が所有する鶏ふん小屋で、用事を済ませに来た農家の長男が腐乱した女性の遺体を発見した。
遺体発見現場となった鶏ふん小屋の広さはわずか6畳ほどで、鶏ふんを溜める目的のほか農具入れとしても使われており、名古屋の中村遊郭から少し離れた場所の人通りの少ない場所にあった。
筵(むしろ)で覆われて隠されていた遺体は体つきで女性と判別できたものの、頭部は切断され持ち去られており、体はかけつけた警官が目を背けるほどの凄惨な状態であった。
そして遺体の傍らには、凶器と思しき数珠が巻かれた出刃包丁と、被害者の女性が犯人に宛てたと思しき「恋文」が落ちていたのだ。
当初遺体は中村遊郭で働く遊女の誰かではないかと考えられていた。しかし捜査の結果、遺体の身元は名古屋で青果業を営む吉田家の次女、ます江であることがわかった。
ます江はまだ19歳の花嫁修業中の娘で、事件発覚前から行方不明となっていた。そのます江がミシンの使い方を習いに通っていた家の主人こそが、後に犯人とわかる増淵倉吉だった。
ます江にミシンを教えていた増淵の妻は既に病死していたのだが、ます江は増淵の妻の死後もなぜか増淵家に通っていたという。警察は遺留品などからます江を殺害した犯人が増淵倉吉であると断定し、指名手配した。
ます江の遺体の首から下が発見されてから3日後、名古屋市から22kmほど離れた木曽川の犬山橋近くの河原で、凄惨な状態になったます江の頭部と、アルミ製のヘアピン、割れた男性用メガネが見つかる。
しかし増淵の行方は依然としてつかめぬままだった。
増淵倉吉の生い立ち
犯人の増淵は事件発覚時44歳で、1888年に群馬県で私生児として生まれ育ち、成人後は東京で所帯を持っていたが、その後ある理由により名古屋に移住してきた男だった。
増淵は若い時から信心深く、特に山岳や河川などの自然を篤く信仰しており、死後の世界が存在することを信じて疑わない人間だったという。
地元群馬で革製造に携わった後に増淵は和菓子職人となり、上京して浅草で和菓子店を経営しながら妻子とともに平穏に暮らしていたが、1923年に起こった関東大震災により店と家を失った。
それを機に妻子を捨てて仕事を求める旅に出て大阪へと行き着くが、大阪の気風が合わなかったのかすぐに名古屋に移住し、旅の最中で出会って懇意になった女性と再婚を果たす。
増淵は和菓子職人の経験を活かしてまんじゅう工場で工場長として勤め、名古屋市内で所帯を持った。
しかし生活が厳しかったため、後妻を講師として近所で裁縫教室を開く。その裁縫教室にミシンを習いに来ていたのが、被害者の吉田ます江だった。
後妻が体調を崩して裁縫教室を閉鎖した後、ます江が後妻の入院する病院へと見舞いに通い続ける中、増淵はます江と関係を持つようになる。
1931年の秋に後妻は病死してしまう。後妻の遺体は献体され解剖には増淵も立ち会ったが、増淵は後妻の解剖の一部始終を目を逸らすこともなく見守っていたという。
後妻を失った増淵は、自暴自棄になり些細なきっかけでまんじゅう工場を辞めてしまう。
再び菓子職人として自分の店を持つことを夢に見ながら、1度はます江と離れて1931年12月に上京するも、元々の内向的な性格もあってかうまくいかず、翌年の1月には名古屋に戻り、文通を続けていたます江を宿泊先の旅館に呼びつけたのだった。
凶行に及んだ増淵
増淵は名古屋の旅館で再会したます江と昼夜問わず情事にふけった。
増淵はこの時すでにます江と心中するつもりであったといわれるが、愛するます江を新たな妻にして、故郷に近い群馬県高崎市で新たな人生を始める心づもりだったともいわれる。
ます江自身も増淵に好意を寄せていたことは2人が交わしていた手紙の中から読み取れたが、増淵との心中はもちろん、自分より20歳以上も年上で、しかも師匠として慕った女性の夫であった増淵との、故郷から遠く離れた地での結婚生活も現実的ではなかったのだろう。
増淵がどういう経緯でます江を殺害するに至ったのかには諸説あるのだが、ます江と身も心も1つになることを望んだ増淵は、事件現場となった鶏ふん小屋にます江を連れ込んで絞殺した後に遺体を損壊し、遺体の一部と頭部を切断して持ち去った。
その後増淵は、愛するます江の頭部を損壊した後に犬山橋近くの木曽川の河原に遺棄して、自分はその近くにあった観光シーズン以外は無人となる茶店を隠れ家とした。
増淵が発見される
1932年3月5日、桜の名所でもある犬山城周辺の観光シーズンに備えて、増淵が隠れ家にしていた茶店にその店の主人が掃除をしに訪れた。
しかし、主人が店とは別棟にあった物置の引き戸を開けようとしたところ、かけた覚えのない内鍵がかけられている。いぶかしんで扉を無理矢理外した店主が物置の中で見つけたのは、まるで死神のような姿をした増淵の首吊り遺体だった。
死後1ヶ月ほど放置されていた増淵の遺体は腐敗が進んでいたが、それ以上に人々を震撼させたのは、増淵の常軌を逸した風体だった。
首を吊った増淵は、長い黒髪がついたままのます江の頭皮を自らの頭に被り、ます江の下着を身につけた上に黒い洋服を着て、ゴム長靴を履いていたのだ。
そして物置小屋の片隅に置いてあった冷蔵庫には、増淵から鶏ふん小屋からます江の遺体の一部が安置されていた。
警察が指名手配までしてどれだけ探しても見つからなかった増淵は遺体として発見され、容疑者死亡という顛末で事件は幕を閉じたのだ。
ます江と一体化することを望んだ増淵
犯人である増淵が自死してしまったため、犯行時の経緯については様々な憶測がなされた。増淵がはじめからます江との心中を望んでいたのか、それともます江に結婚を断られた勢いで殺したのか、事実は闇の中に葬り去られた。
ただ、増淵が着ていたコートのポケットにはます江の財布の他に、増淵がます江の両親に宛てて書いたと思われる手紙が入っており、その手紙に書かれていたのは「娘さんと一緒に高崎へ駆け落ちします」という内容だったという。
死後の世界があることを信じて疑わなかった増淵は、ます江と一体化して死に、江の魂とともに、地元近くの高崎へ帰るつもりだったのだろうか。
また増淵が生前よく登拝したといわれる御嶽山から流れる王滝川は、途中で増淵がます江の頭部を遺棄した木曽川に合流する。
自らが信仰する御嶽山につながる木曽川を通じて、ます江とともに死も生も超越した神の世界に至るためだったとも考えられる。
首なし娘事件と江戸川乱歩『陰獣』との関係
当時事件を報道した新聞が増淵を「陰獣」と呼んだため、首なし娘事件は「陰獣事件」、もしくは「陰獣倉吉事件」とも呼ばれる。
陰獣とは1928年に連載されていた江戸川乱歩の推理小説『陰獣』にちなんだ名で、陰獣とは乱歩曰く「大人しくて陰気だが、秘密めいた怖さや不気味さを持つ獣」を意味する。
しかし、その言葉の響きや小説の題材から世間には違う意味で捉えられ、『陰獣』連載から数年後、「痴情のもつれの末に愛人の若い女を殺した」と考えられた増淵が、「陰獣」と呼ばれるようになったのだ。
首なし娘事件と『陰獣』の中で起こる事件には類似点はなく、新聞が目立つ見出しを打つために「陰獣」という言葉を用いたに過ぎず、乱歩はそれを大層不快に感じたという。
しかし実際、普段の増淵は内向的で大人しく、同じ職人仲間には残酷な事件を起こすような人間とは思われていなかった。そしてとんでもない秘密を隠したままこの世を去った。
あながち「陰獣」というあだ名も間違いではなかったようだ。
参考文献
石川清『元報道記者が見た昭和事件史 歴史から抹殺された惨劇の記録』
合田 一道 (著), 犯罪史研究会 (著)『日本猟奇・残酷事件簿』
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