「アナタハンの女王事件」とは、サイパン島などを含む太平洋マリアナ諸島にある、アナタハン島という孤島で起きた事件だ。
第二次世界大戦末期、32人の男性と1人の女性が、この絶海の孤島に取り残されたことが事の始まりだった。
この事件においての死亡者は、行方不明者も含めて合計13人にものぼり、その内2~6人の男性の死は、1人の女性を巡って起きた対立が原因だとされている。
男たちが命がけで奪い合った「比嘉和子」という日本人女性は、帰国後に一躍時の人として扱われ、「アナタハンの女王」や「女王蜂」ともてはやされて人々の下世話な好奇心の的となり、一連の怪死事件は「アナタハンの女王事件」と呼ばれた。
今回は、戦後の空気が薄れつつあった日本に衝撃を与えた「アナタハンの女王事件」の概要と、アナタハンの女王と呼ばれた比嘉和子の生涯に触れていきたい。
目次
和子と32人の男たちがアナタハン島に取り残された経緯
アナタハン島は、現在は海外旅行先として人気のあるサイパン島から北に約117kmに位置する小さな島だ。
1945年当時は日本の委任統治領に属していたが、元々は数十人に満たない原住民が暮らす島だった。
比嘉和子がアナタハン島に移住したのは、第二次世界大戦末期の頃だった。
和子は、サイパン島を始めとする南洋諸島に拠点を置いて製糖事業で発展した南洋興発株式会社社員の妻で、夫と共にアナタハン島に派遣された。
そして、夫の上司であった農園技師の菊一郎とその妻子、数十人の島の原住民らと協力しながらほぼ自給自足の生活をしていた。
1944年6月から、日本が掌握していたサイパン陥落を狙うアメリカ軍によって、アナタハン島は苛烈な爆撃を受けた。その結果、原住民は終戦までに全員がサイパン島に避難したが、和子と菊一郎は島内に残留した。
その頃、和子の夫や菊一郎の妻子は、用事のためアナタハン島を離れており、消息不明となっていた。
そしてアナタハン島には菊一郎と和子以外にも、島の近海で撃沈された船の乗組員だった日本軍兵士と船員合わせて31人が命からがらたどり着いており、乗っていた船ごとに集団で暮らしていた。兵士たちはそのほとんどが、10代から20代の血気盛んな若者だった。
和子は身の安全を確保するために菊一郎と「夫婦」だと装い、日本人兵士たちが築いた集落から離れた場所で暮らすようになる。
かくして、アナタハン島内での和子と菊一郎の偽装夫婦、日本人兵士31名の、その後7年にも及ぶ奇妙な共同生活が始まったのだ。
日本敗戦後、忘れ去られた和子と男たち
終戦後まもなく、アメリカ軍はアナタハンに住む日本人に向けて、拡声器で日本の敗戦を告知し投降するよう呼びかけたが、兵士や和子夫妻はそれを信じず島を出ようとはしなかった。
戦時中は南洋興発からの物資の支給があったが、終戦後はそれも無くなった。
和子たちは会社から支給された食料を食べ尽くした後は、森で捕獲したコウモリやトカゲなどの小動物、自家栽培したサトイモなどを食料として食い繋いだ。そして、最低限の布切れや植物の葉で作った腰ミノを身につけて木を擦り合わせて火起こしするという、原始的なサバイバル生活を営まざるを得なくなった。
ところで人間には「三大欲求」があることは、皆さんも知る所であろう。そのうち「食欲」と「睡眠欲」は生命維持に欠かせないため重視されるが、どちらかといえば「性欲」は生きることに必須ではないと軽視されがちだ。
しかし、人間の男性は自らの命が脅かされるような極限状態に陥った時に、子孫を残す目的のため性欲が増大するといわれる。
そのことを念頭に置けば、アナタハン島という絶海の孤島で飢えに耐えながら生きていた男たちと和子の間で、何が起きていたのかは想像に難くないだろう。
若い兵士たちの行き場のない欲求は、紅一点の和子1人に向けられたのだ。
サバイバル生活を乗り越えて生まれた対立
アナタハン島の中で起こった出来事については、和子を含む生存者たちの証言に基づいた情報しか残っていない。
それゆえに一連の変死を含む出来事は「アナタハンの女王事件」と呼ばれるが、正式に事件化されたわけではない。生存者それぞれの証言には微妙に食い違いがあり、正確なことは不明なままであるが、ここでは判明している情報を述べていく。
元々島内の農園でココヤシなどの栽培に従事していた和子は、絶海の孤島に取り残されながらサバイバル生活を営む男たちにとって、食と性を提供してくれる貴重な存在だった。
和子は偽装とはいえ菊一郎という「夫」と暮らしながらも、他の男から要望があれば良かれと思ってそれに応えていたという。
終戦前に男たちのうち1人は高波にさらわれて行方不明となり、終戦後半年ほどの時期に1人が病死している。
物資支給が途絶えてはじめのうちはギリギリ命を繋いでいたものの、島での自給自足生活が安定し始め、男たちは手作りのヤシ酒を飲みながら宴会をできる余裕が生まれていた。すると命の危機の中で助け合って生きていた30人の男たちの中に、和子を巡って微妙な空気が流れ始めた。
男たちの関係に決定的な変化が現れたのは、1946年8月にアナタハンの山中に墜落していたアメリカ軍機の中から拳銃と実弾が見つかったことだ。
銃という圧倒的な武力を手に入れた2人の男AとBは、島内で圧倒的な権力を持つようになった。
島内で相次ぐ男たちの変死
それから間もなく、ABと険悪な仲だったCが変死を遂げた。木登り中に落ちたことが原因とされたが、目撃者はABしかいなかった。
その後和子は、嫉妬で暴力をふるう菊一郎から逃れるため、Dと駆け落ちを試みたがあえなく見つかり、集落に連れ戻される。
以後Aが、これ見よがしに和子に近付くようになる。Aは「菊一郎を拳銃で殺す」と和子を脅迫して、自分のものにしようとした。嫉妬深い菊一郎もそれには恐れをなして和子を差し出し、和子は菊一郎とABという3人の男と共に暮らし始めた。
しかしある日、ABが仲違いしてAはBに射殺されてしまった。
菊一郎は自分も殺されることを恐れて身を引き、和子はBと夫婦として暮らすようになる。
その数か月後、Bが行方不明になった。菊一郎と和子は「Bは釣りの最中に海に落ちて死んだ」と証言したが、Bは泳ぎが得意な人物で、2人の証言を信じる者は誰もいなかったという。
夫婦としてよりを戻した菊一郎と和子だが、Bの死から半年ほどしてから、菊一郎が変死した。
当初和子は「菊一郎は、ヤシガニを食べて食中毒で死んだ」と証言していたが、後に和子の3番目の夫になったEが射殺したことを認めている。
そしてそのEもまた、後に不審な死を遂げた。
その後は男たちのリーダー格であったFの提案により、和子はDと夫婦となり、権力の象徴であった拳銃は海に投げ捨てられた。
身の危険を感じて投降した和子
狭いアナタハン島内で短期間のうちに病死や行方不明、不審な死が相次ぎ、Fの提案により一応は落ち着いたものの、男たちは危機感を覚えた。そして「争いの元凶は和子であり、和子さえいなくなれば島に平和が訪れる」と次第に考えるようになった。
身の危険を感じた和子は、1950年6月、アナタハン島に接近してきた日本人が同乗していたアメリカ軍の船に近付き、1人で投降した。
その後は和子の訴えの甲斐もあり、アナタハン島に残っていた男たちも救出されたが、当初32人いた男たちは19人にまで減っていた。
そして、終戦から約6年経った1951年7月7日、アナタハン島の日本人生存者たちはようやく日本本土への上陸を果たすこととなる。
日本に帰国した時、和子は28歳になっていた。
「アナタハンの女王」として世間から注目を集める
アナタハン島での出来事は、絶海の孤島で起きた男女の愛憎劇として報道され、人々の好奇心を大いに刺激した。
最初は新聞の片隅に小さなコラムとして記されたが、『沖縄タイムス』がアナタハン島での出来事と生存者の帰還を大きく取り上げたことにより、まずは沖縄の人々に知られ、和子本人に対するインタビューも行われた。
その後、沖縄タイムズ系列の別メディアに掲載された記事が『週刊朝日』に要約したうえで転載され、それ以降和子は「アナタハンの女王」と呼ばれ、「男を惑わす毒婦」のイメージを当てがわれるようになっていったのだ。
生き別れた本来の和子の夫は先に日本に帰国していたが、根拠もなく「和子は死んだ」と思い込み、既に他の女性と再婚して家庭を持っていた。帰国した兵士たちの妻にも再婚している者がおり、やっとの思いで日本に帰り着いたにもかかわらず、絶望の後に失踪した者もいたという。
沖縄の長兄の家に身を寄せていた和子は、興行師の誘いを受けて上京し、アナタハンを題材にしたショーや映画に出演した。人々は「アナタハンの女王」見たさに劇場にこぞって集まり、一躍有名人となった和子のブロマイドは飛ぶように売れたという。
しかし、一時期のブームというのはいつかは収束するものだ。和子に対する人々の興味や好奇心はすぐに薄れ、和子は東京から大阪に流れたが、やがては故郷沖縄に帰って36歳で子持ちの男性と再婚した。
その後は、たこ焼き屋を営みながら平凡に暮らし、52歳で病気にかかり、その生涯に幕を閉じたという。
男たちの欲望に翻弄され続けた「アナタハンの女王」
アナタハン島での男女共同生活が明るみになって以降、「多くの男を翻弄した悪女」として有名になった和子だったが、実際に和子にインタビューした記者によると、「目立って派手な外見や性格をしているというわけでもなく、ごく平凡な女性だった」と評されている。
アナタハン島で限界状態にあった若者たちの欲望に応え、男同士の嫉妬に翻弄された挙句にやっとのことで帰国した和子を待っていたのは、世間からの好奇の目と、アメリカに占領された生まれ故郷の人々の白々しい視線だった。
唯一頼れるはずだった元夫は再婚して子供まで作っていた。学のなかった和子は日銭を稼ぐために歓楽街にあった料亭の女給として働いた。そこではストリップや売春をすることもあったという。
興行師の誘いを受けて上京した際も、ブームが去ればストリップ小屋で南洋踊りを披露するようになり、和子を使って散々稼いだ興行師には使い捨てのように見捨てられた。
和子は男たちを支配した女王と呼ばれたが、実情はアナタハン島でも日本でも男たちに搾取され続けた、女王とは真逆の立場にあった女性だった。
戦争によって引き起こされた「アナタハンの女王事件」は、人間の根底にある原始的な欲望が剝き出しになることで生まれた悲劇だったのである。
参考文献 :
丸山通郎, 田中秀吉 共著『アナタハンの告白』
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