醤油で有名なヤマサ醤油の本社は千葉県銚子市にある。キッコーマンに次いで全国シェア第二位の規模だ。
千葉と醤油との関係には長い歴史がある。しかし、歴史を紐解けば、江戸時代以前の醤油は千葉の名産ではなかった。
では、どこからその技術はもたらされたのか?
海のシルクロード
「いわしのなれ寿司」、「なめろう」、「白浜」、「勝浦」、そして「醤油」。
これらのキーワードで思いつく地域が千葉以外にないだろうか?
和歌山である。
和歌山県湯浅町は醤油発祥の地とされている。和歌山のシェアは全国の1%に満たないが、天然醸造の伝統を守る会社が多い。湯浅は漁業とともに農業が盛んで、醤油に関しては紀州藩の保護を受けて醸造業が発達した。現在でも、角長や湯浅醤油といった企業が有名だ。
角長は 1841年(天保12年)創業。歴史ある「湯浅たまり」というたまり醤油が有名で、その醤油蔵のある街並みは湯浅の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。江戸時代末(1866年(慶応2年))建築で醤油の仕込を行った湯浅醤油職人蔵 や、湯浅醤油資料館などがある。
※湯浅 北町通り
また、湯浅醤油は 近年、湯浅醤油を生かした特徴ある派生商品を数多く販売。その独創性からマスコミに取り上げられることも多い。
そして、湯浅と千葉をつなぐのが、黒潮だ。
江戸時代、当時の紀州は漁労技術の先進地であった。いわしや真鯛を求め、黒潮に乗って多くの漁師が江戸を越えて房総半島にまでやってきていた。やがて、漁民や商人が房総半島沿岸に移住するようになり、和歌山の文化を千葉に定着させたのだった。
そのため、千葉県内には「湯浅」「田辺」、さらにはずばり「紀国(きのくに)」など、和歌山の地名と同じ名字も目立つ。
地名については、九十九里から南房総まで釣りながら往復している時、故郷の南紀白良浜(しらはま)や勝浦によく似た風景に出会い、懐かしさから白浜とか勝浦の地名を付けたというのが定説となっているそうだ。外房の千葉県いすみ市にある大原漁港では、伊勢えびが有名だが、伊勢えび漁では「海老網」などが紀州から伝わった漁法であるという。他にも真鯛漁の代表的な釣り方に「紀州びしま釣り」が、イワシ漁では「あぐり網」などが伝えられている。
※八幡岬・小浜八幡神社より眺望する大原漁港
食文化の伝来
※ふな寿司
食文化の面でも和歌山から千葉にもたらされたものは多い。
醤油はもちろん、鰹節もそうだ。九十九里には魚と米を発酵させる「イワシのくさりずし」が伝わるが、関東ではなれ寿司は珍しい。なれ寿司は主に魚を塩と米飯で乳酸発酵させた食品である。江戸時代になると酢が出回るようになり、発酵によらずに酢飯を使用した寿司が作られ、それが主流となるとされているが、一説によれば、なれ寿司とは「ふなずし」の食べ方を指す言葉であるともいわれている。
いずれにせよ、滋賀の「ふなずし」をはじめ、全国的になれ寿司は多い。和歌山では南部でサンマを、北部ではサバを使っている。サバのなれ寿司については、「紀州名物なれ寿し 魚正 (うおしょう)」のwebサイトに由来まで載っていた。
それによると、
「その昔、平維盛が和歌山県有田郡清水町湯川に隠れ住んでいた時、源氏の追討をうけ護摩山に逃げた。急を聞いた家来が炊きたての飯を桶に詰め、塩さばを乗せて山中を走った。途中それを食べようとしたら寿しになっていたという。今に伝わるなれ寿しの元祖である。」
とされている。
全国的ななれ寿司の分布を見てみると、やはり中部圏から北陸沿いが多いようだ。滋賀、福井、岐阜、石川、富山、そして北海道。このことから、まるでなれ寿司文化が飛んできたように千葉に定着している理由も、漁師が運んだということでわかる。
また、捕鯨や鯨の肉を食べる文化も共通している。現在、千葉県南房総市和田町には捕鯨基地がある。北海道網走市、宮城県石巻市鮎川と並び、和歌山県東牟婁郡太地町と和田町の4ヶ所が、日本政府から許可を受けた小型捕鯨の基地なのだ。
銚子と紀州
千葉県北東部、東と南は太平洋に面し、北は利根川河口に面しているのが銚子市である。元は「銚子口」と呼ばれていた。「銚子」は、小さな注ぎ口を持つ酒器で、もともとは生薬を煎じるのに使われた土瓶ややかんの類(徳利ではない)だ。入り口が狭く、中に入るとより広い空間が拡がる地形がよく似ているため、この地名がついたとされている。
その銚子の名物「ぬれせんべい」で一躍有名になった銚子電鉄の終着駅が「外川(とがわ)」だ。
この町が整備されたのは1658年のこと。1656年に紀州・広村(現在の広川町)から移住した「崎山治郎右衛門(さきやまじろうえもん)」が、冷たい親潮と暖かい黒潮がぶつかる豊かな漁場であるこの地を見込み、築港工事を開始。外川漁港の完成を受け、南向きの斜面に集落を整備。和歌山からの移住者を多く受け入れ、漁業や海運業に従事させた。
しかし、紀州人が発展させたのは戸川だけではない。
※利根川河口と銚子市街地
現在、日本でも有数の水揚げ量を誇る銚子漁港を周辺も、紀州人の手により区画整理され、発展を遂げた。銚子市にある「木国(もっこく)会」は、江戸時代に銚子に移り住んだ紀州出身者の子孫が集まる親睦団体である。会の名の由来は、かつての「紀の国」に「木の国」の文字を当てたことにちなむ。明治31年(1898年)の発足から110年以上の歴史を持つ歴史ある団体だ。
現在は、ヤマサ醤油の浜口道雄社長が会長として約200人の会員を束ねる。
木国会メンバーは毎年5月、妙福寺(銚子市)に顔をそろえ、
「銚子港もと海浜の一僻地(へきち)、今日の繁栄はひとえに我が紀国人の開拓の功」と刻んだ「紀国人移住碑」の前で慰霊祭を開き、自らのルーツを確認するという。
戦時中を含め途切れたことのない恒例行事だ。
最後に
温暖な気候、豊富な水産資源と千葉には魅力が多いが、故郷を離れてまで移住してきた過去の紀州人たちの開拓精神は凄い。
余談だが、神奈川県東部(川崎・横須賀など)には「さいか屋」という百貨店がある。「さいか」という名も、雑賀衆の末裔とされる岡本傅兵衛が、1867年(慶応3年)6月に西浦賀の高砂屋呉服店の丁稚奉公から独立して25両の貯蓄を元手に呉服店を開いたのが始まりである。
雑賀衆とは、戦国時代に紀伊半島の半分を支配したという一大勢力で、現在は和歌山県和歌山市にある雑賀崎(さいかざき)という名称に名残りがある。
魚正 → 公式HP
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