1942年6月、大日本帝国海軍はアラスカ半島に近いアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を攻略し、ここに守備隊を配備した。
しかし、アラスカ半島に近い両島はアメリカ軍にとっては目障りな存在であり、日本に対する反攻作戦が開始されると、両島も攻略目標となったのである。
アッツ島の玉砕
【※アッツ島を守る日本軍の高射砲】
1943年5月、アメリカ軍は11,000の兵力でアッツ島に上陸した。対する日本軍は3,000弱の兵力しかなく、補給を断たれた状態で奮戦したものの、最後は敵陣への白兵突撃を行って玉砕した。
より日本本土に近いアッツ島が陥落したことで、キスカ島の守備隊は完全に孤立することになった。周囲にアメリカ軍の艦艇や航空機が出没するようになったため、補給も断たれた状態になってしまう。
もとより、アリューシャン列島の確保を重要視していなかった日本側は、この方面からの撤退を決定し、キスカ島の守備兵も撤退させることになった。
この撤退作戦は当初、潜水艦を島に近づけて将兵を乗り込ませる方法で進められた。だが、キスカ島へ向った第一潜水戦隊の潜水艦15隻は、周囲を警戒中だったアメリカ軍艦艇のレーダーに発見されてしまう。
これにより、潜水艦隊は砲撃を受け、撃沈、あるいは損傷という被害を出して後退を余儀なくされてしまう。
守備隊を救出せよ!
【※キスカ島】
これまでの海戦で多くの水上艦艇を失っていた帝国海軍は、撤退作戦に潜水艦以外の艦艇を投入することに消極的だったが、他に手段がないとなれば駆逐艦の派遣を認めるしかなかった。
しかし、ただ駆逐艦を正面から突入させたのでは優勢なアメリカ軍の哨戒線に引っ掛かり、潜水艦隊の二の舞になりかねない。キスカ島の東方にあるアムチトカ島にはアメリカ軍の飛行場があり、空から攻撃を受ける可能性もあった。
そこで航空機が飛べなくなる濃霧の日を選び、作戦を遂行することが決められた。だが、日本軍の身を隠してくれる濃霧は、同時に自らの視界を塞ぐことにもなる。
この問題に対し、救出を行う第一水雷戦隊司令官「木村昌福」少将は、レーダーを搭載した艦を隊に加えるよう要請した。そして、連合艦隊司令部はこれを認め、就役したばかりの新鋭艦で、レーダーを搭載した駆逐艦「島風」を木村の指揮下に配備することになる。
キスカ島突入!
キスカ島撤退作戦「ケ号作戦」の概要は、7月12日に島へ接近し、将兵を収容するとされていた。
しかし、その日は島の周辺に濃霧が発生しなかったため、突入は延期。さらに数日経ってもやはり濃霧が発生しない状況が続く。ここで木村少将は無理な突入を避け、一度帰還する決断を下した。
現場では帰還は妥当な判断だとしていたが、連合艦隊司令部や軍令部からの「なぜ突入しなかった!」という非難は凄まじいものとなる。だが、木村はそれらを聞き流し、ただじっと濃霧が発生するのを待っていた。
当地の気象台が、25日以降にキスカ島周辺で濃霧が発生するとの予報を出したのは、7月22日のことだった。ここで木村の救出部隊はたたちに出撃し、28日にはついにキスカ島周辺に到達する。
ところがその日は前回同様に濃霧は発生しなかった。しかし、ここでも木村は「その時」をじっと待つ。
そして、29日に待望の濃霧が発生すると、救出部隊はキスカ島へと突入、上陸用舟艇を使ってキスカ島守備隊約5,000名の将兵を収容することに成功した。
キスカ島の奇跡
【※木村昌福(きむらまさとみ)少将】
午後2時35分、作業を終えた部隊はキスカ湾を後にして全速力で離脱を開始する。木村の部隊は全艦無事に帰還し、ケ号作戦は成功したのであった。
日本軍撤退を察知できなかったアメリカ軍は、7月30日より、キスカ島攻略作戦を開始したが、結局は無人の島を占領することになる。その際、味方を日本兵と見誤り、同仕討ちによって130人の死傷者も出す結果となった。
このケ号作戦はアメリカ軍の監視の目をかいくぐり、守備隊全員を無傷で撤退させたことから「キスカ島の奇跡」と呼ばれることになる。
自軍にとって不利と見るや帰還を選択した木村少将の判断力と、非難にさらされることを覚悟の決断力がこれを可能としたのだった。
日本では活躍できなかった「日本製アンテナ」
【※当時の日本製アンテナ】
この作戦が奇跡とまで呼ばれたのは、アメリカ軍のレーダーの性能が優秀だったという一面がある。
第二時世界大戦勃発前より、欧米ではレーダーの実用化に向けた研究が行われていたが、ドイツ空軍機を遠方からキャッチするために開戦後は急速に実用化されるようになる。太平洋戦争でも日本海軍はアメリカ海軍の艦載レーダーに苦しめられた。もちろん、日本においても戦前から研究は行われており、指向性に優れた独自のアンテナを開発したのだが、国内ではあまり重要視されず、レーダーの性能に差を生むことになる。
だが、このアンテナは以後、アメリカを含む各国で採用され、その技術がやがて日本軍を苦しめるようになった。なんとも皮肉な話である。
最後に
当時、最新の技術を積極的に採用したアメリカ軍だったが、その背景にはヨーロッパ戦線におけるドイツ軍との「技術戦争」ともいうべき状況があった。
「どちらが早く優れた技術を実用化させるか」。その成果が太平洋戦争にも投入されたのだが、木村少将は冷静な判断により、レーダーの性能の差を克服したことになる。
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