美術史上、伝説の存在となっているパブロ・ピカソ。
彼の代表作のひとつである『泣く女』をご覧になったことはあるだろうか。
一度この作品をみれば、グロテスクな構図で描きあげられたひとりの女性の悲しみをたたえたその姿に、くぎ付けになってしまうことだろう。
この『泣く女』は、ピカソ最大の力作である『ゲルニカ』が発表された1937年、『ゲルニカ』の習作として発表されたものである。
この『泣く女』のモデルとなったのが、ピカソの愛人であったドラ・マール(1907~1997)という女性であった。
ピカソは数多くの女性と恋に落ちたが、その中でもこのドラ・マールほど強烈なインパクトを持った女性は、他にいないだろう。
今回は、『泣く女』のモデル、ドラ・マールについて追っていく。
ピカソとの出会い
(ドラ・マール(1907~1997)。エキゾチックでとても美しい女性である)
ドラ・マールは、1907年、ユダヤ系クロアチア人の父と、フランス人の母との間に生まれた。
ドラの父は南米では有名な建築家で、ドラの幼少期には、家族でアルゼンチンに在住していた。
ピカソに出会う前のドラは、将来を期待される写真家として、一時アメリカの写真家、マン・レイの助手としても活躍していた。
マン・レイとの仕事は助手としてだけではなく、時には被写体としてモデルも引き受けていたようだ。
1936年1月パリ、ドラは詩人ポール・エリュアールの紹介で、ピカソに出会う。
当時、彼女は28歳。対してピカソは、すでに54歳になっていたという。
ドラには自傷癖があり、テーブルの上でナイフを使い、指と指の間を高速で刺す、というゲームを好んでいた。
そのため、彼女の手は傷だらけであり、愛用していた手袋には血が滲んでいたという。
ピカソは、美貌と危うさを兼ね備えたドラに魅了され、彼女の血のついた手袋をもらうと、その後自分のアパートに飾っていたという。
また、ドラは幼少期をアルゼンチンで過ごしていたことから、スペイン語を流暢に話すことができた。
そのため、スペイン出身のピカソとも流暢にコミュニケーションがとれたのである。
2人はあっという間に恋人関係になり、ピカソの作品には、ドラをモデルにした作品が増えていった。
女同士の戦い
ドラは非常に激しい気性の持ち主で、ピカソの他の愛人たちとの間に、こんなエピソードを持っている。
ある日、ピカソのアトリエに、マリー・テレーズという女性がやってきた。
彼女はピカソの愛人であり、ピカソとの間に娘をもうけている。
(ピカソの間に娘をもうけた、マリー・テレーズをモデルにした絵画)
ピカソは同時に複数の愛人を持つ男であったが、運悪くマリー・テレーズとドラが、アトリエで鉢合わせしてしまったのである。
こんな時、普通の男性ならばしどろもどろになって、言い訳のひとつでも並べ立てそうなものである。
しかしピカソは、2人の愛人に向かって、「(恋人を)どちらかに決めるつもりはない。戦え」と言い放ったのである。
ドラはマリー・テレーズに掴みかかり、マリー・テレーズもこれに応戦した。
絵筆や絵の具が散乱するピカソのアトリエは、2人の女にとってたちまち戦場となったのである。
やがて、マリー・テレーズが静かにアトリエを出て行き、この勝負は決着したようである。
ドラはまるで燃えさかる火のように、激しい性格の女性だった。
『ゲルニカ』と『泣く女』
ピカソは、1937年に、“パリ万国博覧会”のスペイン館を飾る壁画の製作を依頼される。
ピカソは、前年にスペインの内戦で起こった、ドイツ軍による空爆をモチーフにした作品を描くことを決めた。
大作に取り掛かるピカソの製作過程を、自らのカメラで撮影し続けたのが、ドラであった。
やがて『ゲルニカ』が完成すると、同年1937年に、ピカソはドラをモデルにして、『泣く女』を完成された。
『泣く女』には、さまざまな作品群が存在するが、代表的な『泣く女』の版画は、パリ万国展覧会のスペイン館にて、『ゲルニカ』の隣に展示されることになった。
先ほども記したように、ドラは非常に激しい性格の女性だった。
そのため、感情が高ぶることが多く、しょっちゅう泣いていたという。
ドラにはピカソとのあいだに子供が出来ず、娘を生んだマリー・テレーズと自分を比べてはいつも苦悩していた。
そんなドラの姿を、ピカソは次々に描き続けたのである。
『泣く女』は、『ゲルニカ』に描かれた“死んだ子供を抱いて泣く女”を基盤にして描かれたといわれている。
空爆により子供を亡くし、泣き叫ぶ女と、感情的になり涙を流しているドラの、ダブル・イメージとして『泣く女』は製作されていたのである。
このことから、『泣く女』は『ゲルニカ』の後継作品であると言われている。
その後、第二次世界大戦に巻き込まれてゆくピカソとドラだったが、ドラは2人の生活に必要な物資を調達したりと、戦争下の日々を気丈に過ごしていた。
ピカソとの別れ、そして晩年
1943年頃、フランソワーズ・ジローという女性が現れる。
彼女は若く、美しい画家であり、その才能はもちろんのこと、非常に頭がよく、社会的にも成功する資質を持った女性たった。
そのため、ピカソの関心は、ドラからフランソワーズへと移り変わる。
ピカソと破局することになったドラは、精神的に不安定になり、精神病院へ入院することになってしまった。
ピカソからは手切れ金代わりに、ピカソの作品が所蔵されている館を受け取るも、彼との思い出のつまった作品を売りだすことが出来ず、困窮生活を送ることになった。
その後ドラは、贅沢はほとんどせず、細々と制作活動に取り組みながら、外界との交流を絶って暮らし続け、89歳でその生涯を閉じた。
火のように激しい性格を持ちつつも、ピカソとの思い出の作品を、最後まで手元に置いていたという、純粋な女性であったドラ・マール。
彼女はピカソと出会ったことで、人生を狂わされ、ピカソの創作の犠牲者となってしまった、といわれている。
ドラが亡くなったあと、彼女の所蔵品が競売にかけられると、なんとその金額は日本円で31億5000万円にもおよんだという。
さいごに
ピカソは、多くの女性から作品のインスピレーションを受けていたというが、そのためにドラは多くの辛い想いを抱えることになってしまったといえる。
だが、一時の間でもピカソの“プライベートミューズ”として、彼の作品の中に君臨し、またピカソの代表作である『ゲルニカ』や『泣く女』の製作に深く関わったということは、ドラにとっては生涯忘れえぬ、栄光のひとときであったのではないだろうか。
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