
画像:鎌倉明月院 山門前の石段とあじさい wiki c Kakidai
雨が多い梅雨時に花の盛りを迎えるアジサイは、寒暖差が大きく気分が落ち込みやすい季節に、鮮やかな花姿で見る人の気持ちを和ませてくれる。
しかし、なぜかアジサイの名所としてよく知られる場所は、他の花々と比べてみると、やたらと寺院が多い。
多くのアジサイが植えられていることを理由に、親しみを込めて「アジサイ寺」と呼ばれる寺院が、日本全国にいくつも点在しているのである。
なぜアジサイはこんなにも、寺院と密接な関係にあるのだろうか。
今回は、梅雨に彩りを添えるアジサイの歴史や、日本の寺院に植えられるようになった理由について触れていこう。
アジサイという名の由来

画像:秋田県男鹿市、雲昌寺のアジサイ。6月下旬から7月上旬にかけての見頃には境内の一面が青に染まる。 wiki c 掬茶
バラや菊など、日本でポピュラーな花々の多くは、元々は大陸から持ち込まれた渡来植物だが、アジサイは日本原産の植物だ。
特に日本に自生するガクアジサイとヤマアジサイは、日本固有の植物としても知られている。
古くは最古の和歌集である『万葉集』にも、アジサイは「味狭藍」や「安治佐為」という字をあてて詠われた和歌が収録されている。平安時代に編纂された辞典では、アジサイに「阿豆佐為」という字があてられた。
アジサイという名は、「藍色が集まったもの」を意味する「集真藍(あづさあい)」に由来するという説が有力である。
アジサイは、時間の経過や土壌の酸性度の変化で花の色(正確にはガクの色)を変える性質があり、その色をよく変える姿から「七変化」や「八仙花」という別名もつけられた。
さらに俳句の世界においては、アジサイを示す「四葩(よひら、4枚の花弁の意)」という呼び名が、夏の季語として好んで使われている。手毬のように丸く集まって小花が咲く姿から「手毬花」と呼ばれることもある。
一部の地域ではガクアジサイの葉を、今でいうトイレットペーパーとして使っていたことに由来してか、草冠に便の字を合わせた漢字で表記され、「止毛久佐(ともくさ、しもくさ)」とも呼ばれていた。
現在「紫陽花」という漢字がアジサイに用いられているのは、唐代の詩人・白楽天がライラックの花に名づけた「紫陽花」という表現を、平安時代の学者で三十六歌仙の一人でもある源順(みなもとのしたごう)が、誤ってアジサイにあてたことに由来するとされている。
日本におけるアジサイ園芸の歴史

画像:紫陽花に燕 葛飾北斎筆 public domain
アジサイが観賞用として園芸化されたのは、鎌倉時代のことであった。
当初は原種のガクアジサイを植栽することから始まり、徐々に種類を増やしていって、江戸時代ごろには一般的な庭園植物となった。
『万葉集』にアジサイを詠んだ和歌が収録されていることから、アジサイは遅くとも奈良時代には人々に認識されていたと考えられる。ただし、花の色が変化する性質が心変わりや移ろいやすさを連想させるとして、平安時代中頃までは不道徳な花と見なされ、歌の題材としても敬遠されていたという説もある。
安土桃山時代に入ってから、ようやくアジサイは画題にも用いられるようになった。
織田信長や豊臣秀吉に仕えた絵師・狩野永徳が描いた『松紫陽花図』が、京都の南禅寺に重要文化財として保管されている。
江戸時代に入ると、大都市・江戸を中心に日本の園芸文化は盛んになったが、アジサイはどちらかといえば植木屋には嫌われる植物だった。
アジサイは日本原産の植物なだけあって、日本の湿気がちな気候に適しており、丈夫で生命力も強いので、切り取った枝を地面に挿し木にしておけば、いとも簡単に根付いて増えていく。
素人でも簡単に増やせてしまうと商売にならなかったので、植木屋はアジサイを好まなかったのだ。
しかし西洋人にとっては、日本産のアジサイは東洋的な雰囲気を醸し出す不思議な魅力にあふれた花だったのだろう。
ヨーロッパの園芸家たちは、古くに日本から中国に渡ったアジサイを園芸に導入して様々な品種を生み出し、そうして作られた新しい品種のアジサイは、セイヨウアジサイとして日本に逆輸入された。
アジサイにまつわる歴史的逸話としてよく知られているのは、長崎の出島でオランダ商館医を務めたドイツ人医師であり、植物学者でもあったシーボルトの話であろう。

画像:楠本 滝(お滝) public domain
来日後まもなく、長崎で遊女をしていた楠本滝という女性と結ばれ、イネという娘を1人もうけたシーボルトは、自身が日本で見つけたアジサイを新種記載した際に「Hydrangea otaksa Siebold et Zuccarini」と命名した。
結局このアジサイは新種ではなかったため、シーボルト命名の学名は採用されずに終わった。
しかし、日本の植物学者である牧野富太郎は、シーボルトが楠本滝の名を用いてそのアジサイに「otaksa(お滝さん)」と名付けたと推測し、公私混同して植物に遊女の名を付けたことに憤慨したという。
アジサイが寺院に植えられる理由

画像:妙法生寺(千葉県大多喜町)、アジサイ寺として知られる。 wiki c Uraomote yamaneko
江戸時代頃まで日本では大した人気がなかったアジサイが、なぜ人々の心の拠り所であった寺院で積極的に植えられたのだろうか。
その理由には諸説あるが、アジサイが「梅雨時に咲く花」であることが理由の1つと考えられている。
まだ医療や衛生観念が現代のように発展していなかった時代、梅雨時の大きな気温の変化や湿気の多さは、流行り病の伝染を大いに助長した。
天然痘や麻疹、コレラや赤痢など、梅雨時には感染者の命を奪うような病が流行りやすい上に治りづらく、多くの死者が出たという。
そのような時期に花の盛りを迎えるアジサイは、花弁の数が4枚で「死」を連想させることもあり、死者に手向ける花とみなされた。
過去に流行り病によって多くの死者が出た地区の寺には、特に多くのアジサイが植えられた。
さらに挿し木で簡単に増えていくアジサイは、医療の発展により流行り病による死者が少なくなった後も、日本各地の寺院で植栽され続けた。

画像:能護寺(埼玉県熊谷市)の鐘楼堂と紫陽花 wiki c 京浜にけ
また、アジサイには不吉さを連想させるという見方がある一方で「厄除けの象徴」とする説もある。
アジサイが七色に変化する姿は、仏教の教えである「七難即滅・七福即生」を連想させるため、縁起が良いともいわれている。
その色が常に移ろい続ける様子が、仏教の根本思想である「無常」を象徴するともされ、実際に「無常」はアジサイの花言葉の一つにもなっている。
釈迦の生誕を祝う花祭りで用いられる「アマチャ」がアジサイの一種であることから、寺院でアマチャを始めとするアジサイ栽培が積極的に行われたという説もある。
アジサイは水分を多く吸収するため、1度地面に根付くと深く広く根を張りながら育つことから、寺院が建つ崖や山の土砂崩れを防ぐ効果もあったという。
そしてアジサイは、主に茎や葉に毒を含む有毒植物でもある。
墓地の周辺に率先して植えられたと伝わる彼岸花しかり、害獣除けの効果が期待された可能性はなきにしもあらずだ。
いずれの説にせよ、アジサイという植物が持つ特性は、寺院や仏教の性質と相性が良かったのだろう。
アジサイ寺が観光地として注目されるようになったきっかけは、現在も「アジサイ寺」として名高い北鎌倉の明月院にあるとされる。
終戦後、荒れていた参道を整備する際、杭の代用品としてアジサイを植えたところ、それが次第に評判を呼び、多くの参拝者や観光客が訪れるようになった。
その人気を受けて、もともとアジサイを植えていた他の寺院にも注目が集まり、さらに評判を聞いた各地の寺院が植栽を始めたことで、全国に「アジサイ寺」と呼ばれる寺院が広がっていった。
梅雨時になると明月院の境内を埋め尽くすように咲く青いアジサイは、その美しさを讃えて「明月院ブルー」と呼ばれており、毎年多くの観光客が満開のアジサイを見物しに訪れている。
アジサイを愛でて梅雨を乗り越えよう

画像:pixabay
平安後期の歌人である藤原俊成は、アジサイの花を題材にして『夏もなほ 心はつきぬ あぢさゐの よひらの露に 月もすみけり』と詠んだ。
俊成は、蒸し暑い夏の雨上がりの宵の頃、アジサイの花弁に宿った露に澄んだ月の光が映る光景を、ただの日常として見逃さずに情感豊かに詠ったのだ。
たとえ梅雨のような過ごしづらい季節でも、鮮やかに咲くアジサイは見る人に、こんなにも美しい感銘を与えてくれる。たとえ死者に手向けられた花であったとしても、その姿は生者の心をも和ませてくれる。
梅雨時は雨が多く、どうしても外出する気力が湧かず、家に引きこもりになりがちだ。しかし雨だからといって部屋に籠ってばかりいると、気持ちも体調も落ち込んでしまう。
アジサイは数多くある花の中でも、雨に濡れてこそ鮮やかさを増す珍しい植物だ。
雨の休日に外に出かける口実として、日本各地のアジサイ寺やアジサイの名所に足を運んでみてはいかがだろうか。
参考 :
日本アジサイ協会 (編集)『アジサイの教科書』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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