なぜカンボジアは一夜で変わったのか?

画像 : カンボジアの位置 TUBS CC BY-SA 3.0
カンボジアは東南アジアの国で、首都はプノンペンである。
1970年代、この国は内戦と大国の介入で急速に壊れていった。出発点は1970年の政変である。
国王ノロドム・シハヌーク(当時の国家元首)がクーデターで失脚し、ロン・ノル(親米の軍人・政治家)が実権を握る。ここから内戦が本格化し、さらにベトナム戦争の余波で、カンボジア国内にも戦闘と空爆が広がっていった。
この混乱のなかで勢力を伸ばしたのがクメール・ルージュ(急進共産主義の武装勢力)だった。
指導者のポル・ポトは「腐敗した旧体制を終わらせる」「真の平等な社会をつくる」と唱え、特に農村部で支持と動員を拡大していった。

画像:ポル・ポトpublic domain
そして1975年4月、首都プノンペンが陥落し、クメール・ルージュが政権を握る。
ここから1979年までの「民主カンプチア」と呼ばれる時代に、社会そのものを作り替える極端な政策が一気に実行された。
それはやがて各地の処刑場、のちに「キリングフィールド」と総称される場所での大量殺害へとつながっていくこととなる。
強制移住と社会実験

画像 : 首都プノンペンの王宮 public domain
1975年4月、首都プノンペンを制圧したクメール・ルージュは、戦勝後とは思えない命令を出した。
「都市を空にせよ」である。
住民はわずかな荷物だけを持たされ、病人も老人も妊婦も例外なく、農村へ歩いて移動させられた。これは一時的な避難ではなく、都市文明そのものを否定する政策であった。
新政権は国名を「民主カンプチア」と改め、「ゼロ年」を宣言した。
これは過去の歴史や制度をすべて断ち切り、理想の農業社会を一から作り直すという発想である。
貨幣は廃止され、学校も病院も閉鎖、私有財産や宗教も否定され、人びとは集団農場での労働に組み込まれていった。
指導者のポル・ポトは「農民中心の自給自足社会こそが純粋で平等な社会である」と考えた。
しかし実際には、農業経験の乏しい都市住民までが一斉に農村へ動員され、非現実的な増産目標のもとで長時間労働を強いられた。医療や流通も機能せず、生産は混乱し、食糧不足が深刻化していった。
都市から追い出された人びとは「新人民」と呼ばれ、もともと農村にいた「旧人民」よりも厳しく監視された。
少しでも疑いを持たれれば、反革命分子として処罰の対象となった。
この時点で、国はすでに恐怖によって統治される構造に変わっていた。だがそれは、まだ序章にすぎなかった。
キリングフィールドで何が起きたのか

画像 : キリング・フィールドにある犠牲者の遺骨が納められた慰霊塔(チュンエク) public domain
「キリングフィールド」とは、1975年から1979年にかけてクメール・ルージュ政権下で各地に設けられた処刑場の総称である。
カンボジア国内には200か所以上あったとされ、なかでも首都プノンペン郊外のチュンエクは象徴的な場所として知られる。
1979年、政権崩壊後に集団墓地の発掘が始まった。
すると掘り返された土の下から、次々と人骨が現れた。頭蓋骨には鈍器で打ち割られた痕が残り、手足を縛られたまま埋められていた例も確認された。

画像 : チュンエク・キリングフィールドの慰霊塔に安置されたクメール・ルージュ政権犠牲者の頭蓋骨istolethetv CC BY 2.0
その数はなんと、チュンエクだけでも8,000体を超えていたのである。
それは政権下で行われた大量殺害の物的証拠が世界に突きつけられた出来事だった。
なぜここまでの大量殺害が起きたのか。その背景には、極端な思想と疑心暗鬼があった。
政権は「内部の敵」「外国のスパイ」という概念を拡大し続け、知識人、教師、医師、僧侶、旧政権関係者、少数民族などを次々に拘束した。
よく知られるエピソードとして「眼鏡をかけているだけで知識人と見なされた」というものがある。
反体制の証拠がなくても自白を強要され、恐怖が日常化していったのである。
プノンペン市内のトゥール・スレン収容所はかつて高校だった建物で、政権下では「S-21」と呼ばれる秘密警察の拷問施設だった。

画像 : トゥール・スレン虐殺博物館(旧S-21収容所)B棟に展示された被収容者の顔写真(2006年撮影)Albeiro Rodas Public domain
収容された人びとは、拷問の末に虚偽の自白をさせられ、その多くがチュンエクなどの処刑場へ送られた。
S-21には2年9か月の間に1万4000~2万人が収容されたとされるが、生還できたのはわずか12人のみであった。
全体の犠牲者数については諸説あるが、120万人から170万人前後にのぼるとする推計が多い。
これは当時の総人口の約4分の1にあたる規模であり、処刑だけでなく、過酷な労働、飢餓、医療崩壊も死因となった。
つまり、キリングフィールドは単なる処刑場ではなく、社会全体が死に向かう構造の帰結だった。
1979年1月、ベトナム軍の侵攻により民主カンプチアは崩壊する。
指導者たちは逃亡し、現場には無数の集団墓地が残された。
掘り返された頭蓋骨の山は、極端な思想が国家を支配したとき、人間社会がどこまで崩れるのかを示す物証となったのである。
裁きと記憶
1979年に民主カンプチアが崩壊しても、すぐに責任追及が始まったわけではない。
冷戦下において複雑な国際政治が続き、長いあいだ本格的な裁判は開かれなかった。
転機となったのは2006年である。カンボジア政府と国連が協力し、カンボジア特別法廷が設置された。
これは国内法廷と国際法廷の要素を組み合わせた特別な裁判所で、クメール・ルージュ政権の元幹部を「人道に対する罪」や「ジェノサイド」などで裁くための場であった。

画像 : カンボジア特別法廷で公判前勾留審問に出廷したイエン・サリ(2010年2月11日)ECCC Pool/Mak Remissa CC BY 2.0
まず、S-21の所長だったカン・ケク・イウが裁かれ、最終的に終身刑が確定した。
さらに、政権ナンバー2とされたヌオン・チアや国家元首だったキュー・サムファンも有罪判決を受け、終身刑が言い渡された。また、副首相を務めたイエン・サリも起訴され、公判前勾留審問に出廷したが審理の途中で死亡した。
ポル・ポト本人は1998年に死亡しており、法廷に立つことはなかった。
裁判は犠牲を回復するものではないが、国家による大量殺害を公式に「犯罪」と認定し、歴史として確定させた意味は大きいだろう。
1970年代に起きたこの出来事は、内戦や外部からの軍事介入、急進的な思想、そして恐怖の支配が重なったとき、社会がどれほど脆くなるのかを物語っている。
キリングフィールドに積み上げられた頭蓋骨は、その警告として今も静かに残り続けている。
参考 :
・Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia(ECCC)
・Tuol Sleng Genocide Museum 公式資料 他
文 / 草の実堂編集部

























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