ビタミンB1の発見
今日の社会においては医薬品はもとより、健康食品のサプリメントなどでも広くその存在が知られている栄養素・ビタミン。しかしその中のビタミンB1の発見は、医師でも薬学者でもない一介の農芸化学者・鈴木梅太郎 が実現したものでした。
農芸化学とは農業を学問として、これに化学を応用することで生命、食物などの分野における研究を行う学問のことを指しています。
鈴木はこの分野からのアプローチによって、江戸時代には「江戸患い」とも称された当時の難病・脚気に対し、米糠から抽出した後にはオリザニンと名付けられるビタミンB1が有効であることを発見した人物でした。
鈴木梅太郎 の経歴
鈴木は、1874年(明治7年)に静岡県の農家の次男として生まれました。地頭方学校から、1887年(明治20年)に東遠義塾に入り、その後 日本英学館に学び、東京農林学校予備校、東京農林学校と進んで翌年に学校の名称が帝国大学農科大学となった同校を、1893年(明治26年)に予科卒業、1896年(明治29年)には東京帝国大学農科大学農芸化学化を卒業後し、大学院へと進んで植物の生理化学を研究しました。
その後鈴木は、東京帝国大学の教授を務め、また理化学研究所の設立にも参加しました。東京帝国大学の退官の後には、東京農業大学の農芸化学科教授を務めています。
ビタミンB1の発見
鈴木は1910年(明治43年)6月に東京化学会において、ニワトリとハトを白米を飼料として飼育した場合、脚気の様な症状が現れて死に至ること、糠、麦、玄米には脚気を予防しつつ治癒させる成分が含まれることを報告しました。殊に糠の有効成分に強い感心を抱いた鈴木は、その成分を抽出することに尽力しました。
鈴木は、翌1911年(明治44年)1月には東京化学会誌に論文を発表し、その中で糠に含まれる有効成分(後にオリザニンと命名)が動物の生存に必要不可欠の新しい栄養素であることを示し、後にビタミンとして認識されることになる概念を打ち出しました。
しかし、論文がドイツ語へと翻訳さる過程で「新栄養素」の訳が加えられなかったことから、オリザニンの発見が世界の耳目を集めることはなく、日本国内で認知させるに留まりました。
医学界の壁
鈴木は、同年には陸軍の脚気の原因がオリザニンの欠乏症であることを報告しましたが、この発見は日本の医学界から黙殺される結果となりました。
その理由は医者ではなく、ましてや薬学者でもない一介の農化学者が当時の難病である脚気の原因を探り当てるという事象が、権威主義的な医学界の中において認められず、むしろ嘲笑すらされたためでした。
鈴木の発見から1年後、ポーランドの医学者カシミール・フランクが、米糠から脚気に有用な成分の抽出に成功し、これを「ビタミン」と名付けました。
後に鈴木が発見したオリザニンとそのビタミンB1が同様のものであることが判明しましたが、鈴木は日本語の論文のみの発表しか行っておらず、またそれすらも日本国内でも黙殺されていたことで、フランクが発見者と見做され、その名称もビタミンとして知られることになりました。
戦後の普及
鈴木の発見から8年後、1919年(大正8年)になって医師・島薗順次郎が初めてオリザニンを用いた脚気の治療報告を行いました。
しかし、以後も脚気は難病であり、また食糧事情の好転がされない時代であったこともあり、毎年1万人から2万人もの死亡者を出しました。
その一因として、ビタミンB1の抽出にコストがかかり、薬品として高価格だったこと、そもそも消化吸収率が低い成分であることから、発症後の治癒が困難だったことなどが挙げられています。
ようやく医薬品としてオリザニンが日本に普及したのは、1950年代後半になってからの事でした。
この記事へのコメントはありません。