金子みすゞといえば童謡詩人として有名です。
優しく語りかけるような口調で、私たちの心を打つ詩を多く残しました。
教科書やCMなどにも起用されているため、なじみ深い方も多いでしょう。
そんな彼女は、実は26歳という若さで自殺をしています。
今回の記事では、みすゞが亡くなった理由と、死の直前に食べたお菓子の逸話をご紹介いたします。
20歳で詩人の才能を開花
「金子みすゞ?どんな詩を書いた人だっけ?」という方も、「こだまでしょうか」という詩は聞き覚えがあるでしょう。
『遊ぼう』っていうと 『遊ぼう』っていう。
『馬鹿』っていうと『馬鹿』っていう。
『もう遊ばない』っていうと『遊ばない』っていう
そうして、あとでさみしくなって
『ごめんね』っていうと『ごめんね』っていう。
こだまでしょうか、 いいえ、誰でも。
この詩は、東日本大震災の後にCMで使用されたものです。
当時、震災で心に大きな傷を負った日本人に影響を与えた詩のひとつです。
しかし、金子みすゞが一般的に脚光を浴びるようなったのは、ごく最近のこと。
もちろんそれ以前から彼女の詩に惹きつけられた人はたくさんいましたが、その才能を早くに認め、世に広めたのは西条八十(やそ)でした。
みすゞが童謡詩人として注目されるようになったのは、20歳のころです。
山口県下関の書店で働きながら詩を書いていたみすゞは、雑誌「童話」に初めて投稿した作品が掲載されたのです。
その後、選者であった西条八十から大きく評価され、意欲的に詩を書き続けてみすゞの詩人としての才能は大きく開花することになりました。
強制された結婚で人生が一変
しかし、詩人として評価され順風満帆に見えたみすゞの人生は、その後わずか数年で暗転してしまいます。
みすゞは1926年に、父の経営する書店の店員であった宮本啓喜(みやもとけいき)との結婚を強制されました。
その後、女の子・ふさえが生まれますが、夫・啓喜は非常に浮気癖の激しい人物で、いつも遊郭通いに興じていたそうです。
さらに自身が持っていた淋病をみすゞへ感染させるなど、目も当てられない問題行動が目立ちます。
そしてついに病床に臥してしまったみすゞは、夫から創作活動だけでなく詩人との交流を断絶するように要求されました。
心身の不調に苦しみ、耐え難く感じたみすゞはとうとう離婚を申し出たのです。
たった一人の愛娘の親権を取られて絶望
こうして正式に離婚が決まったものの、みすゞはさらに追い打ちをかけられます。
元・夫が「一人娘を引き取る」と伝えてきたのです。
正式な離婚が決まったとき、みすゞは「娘は私が育てたい」と要求していました。
一旦はその願いを受け入れてもらえましたが、夫・啓喜はその考えを突然翻して娘の親権を要求してきたのです。
当時は離婚した後、子供の親権は父親が持つのが一般的。
もし父親が子供を連れ戻しに来たら、必ず引き渡さなければならないという厳しいルールが根強くある時代でした。
こうした時代背景もあり、娘を自分の手で育てられない、と悟ったみすゞは深く絶望し、自殺することを決意します。
愛娘を守るために自殺
『童謡詩人金子みすゞの生涯』(JULA出版局)の中では、みすゞが自殺する直前の様子が綴られています。
その中でも印象的なのが、彼女が写真館の帰り道で桜餅を買って食べたこと。
みすゞは写真を撮影した後に、母と4歳の娘・ふさえと3人で桜餅を食べて、家族団らんの時間を過ごしました。
その後、娘をお風呂に入れた後ぐっすり眠った寝顔を見て、こう呟きます。
「かわいい顔して寝とるね」
これがみすゞの最期の言葉となりました。
翌日、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を残し、大量の睡眠薬を服薬したのです。
こうしてみすゞは、26歳という若さでこの世を去りました。
その後みすゞの娘・ふさえは遺書の内容通り、夫に引き取られることなく祖母の元で育てられます。
そして結婚し一人娘をもうけ、孫やひ孫の成長まで見届けて2022年に亡くなりました。
みすゞが命を懸けて叶えたかった願いは、無事成就されたのです。
おわりに
子ども向けの優しい詩を多く残した金子みすゞですが、彼女にはこんなに儚い逸話があったのです。
みすゞが最期に食べた桜餅は、関西で一般的であった「道明寺」だったと言われています。
道明寺の桜餅には甘さの中にかすかな塩味があり、命をかけて娘を守った彼女の儚さが余計に際立ちます。
参考 :
童謡詩人金子みすゞの生涯 著:矢崎 節夫
信長の朝ごはん龍馬のお弁当 編集:俎倶楽部
南京玉―娘ふさえ・三歳の言葉の記録 著:金子みすゞ 上村ふさえ
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