「魚心あれば水心」という諺がある。
相手の好意には自らも好意で応えるという意味で、人間関係の機微を表している。
しかし、神話や伝承の世界には好意どころか殺意を一方的にぶつけてくる、心無き魚の化け物の伝承が数多く存在する。
本稿では、これら魚妖怪の伝承や特徴に触れながら、その不気味な魅力を掘り下げていく。
1. アウニュ・パナとペヒウェティノメ
アウニュ・パナ(Auñ Pana)とペヒウェティノメ(Pehiwetinome)は、ブラジルやベネズエラの先住民族・ヤノマミ族の伝説に登場する巨大な怪魚である。
双方ともに獰猛な人食い魚であり、その体表は毛で覆われ、ヒレの代わりに屈強な2本の腕が生えているとされる。
普段は水深の深い場所に生息しているが、人間の気配を感じ取ると一気に浮上し、両腕で捕まえて食べてしまうという。
この魚たちが持つ最も特異な能力に、人間を動物に変身させるというものがある。
伝承では、次のようなエピソードが語られている。
(意訳・要約)
ある日、ヤノマミの人々が橋を渡っていたところ、アウニュ・パナとペヒウェティノメの大群が突如として現れた。
怪魚たちにより橋は粉砕され、人々は次々と水の中へと落ちていった。泳いで逃げようとする者もいたが、謎の力により猿や豚へと姿を変えられてしまい、まともに泳ぐことすらままならない。
為す術なく、一人、また一人と食われていった。唯一生き残った少年は、恐怖と悲しさで泣き喚くばかりであった。
やがて彼も猿へと変化してしまった。
怪魚たちは、人間だけでなく、猿や豚に姿を変えられた者たちさえも襲い、その肉を貪欲に味わったというわけだ。
2. ジフィウス
ジフィウス(Ziphius)は、中世ヨーロッパの伝承や文献に、その名が記録された怪魚である。
ジフィウスはフクロウによく似た魚で、そのクチバシは楔のようだと形容される。
普段はアザラシを主食としているが、船を見つけると猛然と襲い掛かり、船員を捕食するのだという。
背びれはナイフのように鋭利であるとされ、これを用いて船底に穴を空けることもあったそうだ。
スウェーデンの学者・オラウス=マグヌス(1490~1558年)が製作した北欧の海図「カルタ・マリナ」には、アザラシを飲み込むジフィウスの姿が描かれている。
この海図には、他にも様々な空想上の生物が描かれている。
真に受けた船乗りの中には、それら怪物が生息するとされる海域を、わざわざ迂回する者もいたという。
3. 奔䱐
奔䱐(ほんふ)は、中国の伝承に登場する怪魚である。
唐代の詩人・段成式(803~863年頃)の記した『酉陽雑俎』において、その存在が言及されている。
全長は約6~9mもあり、色はナマズのようであるとされる。
腹の下には乳腺が2つ存在し、生殖器は人間のそれとソックリだという。
一見その姿は魚のように見えるが、実は魚とは別種の生き物であり、哺乳類に近い動物ではないかと考えられていたそうだ。
頭部には穴が空いており、ここからクジラの潮吹きのように「気」を噴出するとされている。
奔䱐が「気」を出すのは強風が吹く前兆だといわれており、旅行者はこれを目安に、外出するか否かを決めていたという。
家事手伝いもせず怠けてばかりいる女房が、この奔䱐へと変容すると伝えられている。
しかし元が人間の女であるにも拘らず、奔䱐には雌雄の違いがあるとされる。
多様性のある、ジェンダーフリーな怪物だといえよう。
この魚はかつて大量に生息していたが、1頭から約540~720Lもの油が採取できることが知られると、乱獲され数を減らしたという。
奔䱐の油は非常に良質であり、灯火に用いると仄かに燃えるが、祭りの照明などに用いると途轍もなく明るく燃えるとされる。
その正体は近年絶滅した、ヨウスコウイルカだと推測されている。
4. 万歳楽
万歳楽(まんざいらく)は、江戸の町に突如として現れた、謎の魚である。
本島知辰という人物が記した『月堂見聞集』にて、その存在が言及されている。
正徳2年(1712年)、深川(現在の江東区)にて、未知なる魚が網に掛かったそうだ。
全長約2.1m、全身が灰色の毛に覆われたこの魚は、目が赤く、顔つきはどことなくネズミに似ていたという。
魚はやがて江戸城へ献上され、たまたま居合わせた公卿の近衛基熙(1648~1722年)により、「万歳楽」という名前を付けられることになったそうだ。(万歳楽とは「めでたさ」をつかさどる、雅楽の曲の一つである)
その正体はアザラシなどの海獣、あるいはマンボウではないかという説もある。
5. プア・タンガル
プア・タンガル(Pua Tangalu)は、メラネシア(オーストラリア北側の島々)の広い範囲で信仰されている、サメの神である。
海の神でありながら、畑の作物をつかさどる神でもあるという。
ウラワ島(ソロモン諸島を構成する島の一つ)では、次のような伝承が伝わっている。
(意訳・要約)
とある村の人々が、浜辺に打ち上げられたカツオを見つけたので、焼いて食べることにした。
すると突如、村長が神々しい口調で語り始めた。どうやら何者かに憑りつかれているようである。「私はカツオではない。私の正体はプア・タンガルだ。私の死体を浜の祭壇に埋めるがよい」
驚くべきことに、サメの神がカツオに変身していたのである。
村人たちは神託通りに、カツオの死体を祭壇に埋葬した。するとそこからドラセナ、タロイモ、ヘンヨウボクといった植物が、みるみるうちに生えてきたという。
参考 : 『酉陽雑俎』『神魔精妖名辞典』『妖怪図鑑』他
文 / 草の実堂編集部
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