子供を慈しみ、安産や子育てを司る鬼子母神(きしもじん)という神をご存じでしょうか。
仏教における慈悲深い女神でありながら、その名には「鬼」の漢字が使われています。
この「鬼」という字が表す背景には、実はもともとの伝承や信仰の経緯が関係しています。仏教の神となる以前、鬼子母神がどのような神格を持ち、どのような物語があるのかを追ってみましょう。
もともとはインド土着の神様だった
古来、アジア全域では、自然界のあらゆる存在に霊魂や精霊が宿っているとする『アニミズム』の考え方が広く根付いていました。
インドのガンダーラ地方でも同様に、多様な神々が信仰されており、その中でもパンチカとハーリティーという夫婦の神様は、特に崇拝を集めていました。
ハーリティーは多くの子を育てる母として、また疫病や子供の健康に関わる神様として祀られ、懐妊や安産、子供の病気回復を願う信仰が広がっていたのです。
その後、仏教が確立されると、パンチカとハーリティーも仏教の教えを守護する神「夜叉」として位置づけられました。
夜叉とはインドで「精霊」や「守護神」を指す存在ですが、中国に仏教が伝来した際には「鬼神」と表記されるようになり、やがて日本にもその表記が伝わりました。
この「鬼」という表現が、後に「鬼子母神」という名前に繋がっていくのです。
鬼子母神が仏教の神様となった逸話
では、どのようにして土着の神様が仏教の神様として解釈されるようになったのでしょうか。
『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』という仏教の経典には、鬼子母神の原型であるハーリティーが仏法に帰依するまでの物語が記されています。
『その昔、パンチカの妻ハーリティーは1万人の子をもつ子だくさんの鬼神でした。
しかし、その性格は暴虐で人間の子をとって食べるので、人々から恐れ憎まれていました。お釈迦様は、その過ちからハーリティーを救うため、ハーリティーの末子ピンカラを鉢の底に隠してしまいました。
ピンカラを失ったハーリティーは7日の間探し回りますが、ピンカラは見つかりませんでした。嘆き悲しんだハーリティーがお釈迦様に相談すると、「たくさんいるなかの一人を失っただけでもこのような苦悩をするのに、数少ない子供をあなたに殺される父母の苦しみはいかばかりだろう」と諭しました。
そこでハーリティーは今までの過ちを悟り、「これからは絶対に人間の子を殺さない」と誓い、お釈迦様にピンカラを返してもらい、その教えに帰依し、安産・子育ての神となりました。』
このハーリティーが鬼子母神として、のちに日本まで伝わることになります。
また、ハーリティーの夫であるパンチカも財をもたらす神として広まっていきました。
中国をわたり日本へ
その後、仏教が中国に伝わるとともに、鬼子母神信仰も広がり始めました。
中国では、鬼子母神は「訶梨帝母(カリテイモ)」として知られるようになり、唐代の7世紀にはインドを巡礼した僧・玄奘三蔵が『大唐西域記』でその信仰について紹介しています。
やがて、平安時代初期の日本にも仏教の教えとともに鬼子母神信仰が伝来しましたが、空海が遣唐使として唐から日本に持ち帰ったとされる影響も少なからずあったと考えられます。
また、鬼子母神信仰は日本だけでなく、仏教の伝播と共に東南アジア、韓国、チベットなどアジア各地にも広まり、それぞれの地域で安産や子育ての神として人々の生活に深く根付いていきました。
鬼子母神の姿
日本の仏教芸術において、鬼子母神は温和な表情で子供を抱いた姿や、ザクロを手にした姿で描かれることが多く見られます。
この「ザクロを持つ姿」についてはいくつかの由来が伝わっています。一つは、ザクロの果実の中に小さな種が多数含まれていることから、子孫繁栄の象徴とされ、安産や子育ての神である鬼子母神にふさわしいとされる説です。
また、もう一つの説として、鬼子母神がかつて人間の子供を食べていたという逸話から、その代わりとしてザクロを持つようになったという民間の俗説もあります。ただし、この解釈は日本独自のものであり、仏典には登場せず、後世の解釈とされています。
鬼子母神が祭られているところ
日本には鬼子母神を本尊として祀る寺院が数多く存在しています。
その中でも特に有名なのが、「恐れ入谷の鬼子母神」で知られる東京都台東区入谷の真源寺や、豊島区雑司が谷の法明寺鬼子母神堂です。
・真源寺
真源寺は、江戸時代初期に創建された法華宗本門流の寺院で、安産、子育て、厄除けの神様として鬼子母神が本尊として祀られています。
毎年7月に行われる朝顔市は特に多くの人々で賑わい、鬼子母神への信仰の深さを物語っています。
朝顔は、つるが長く伸びて多くの花を咲かせることから、子孫繁栄の象徴とされ、安産や子育ての神である鬼子母神と深く結びつけられてきました。朝顔市で朝顔を購入することで、鬼子母神の加護を受けることができると信じられています。
また、朝顔は古くから薬草としても用いられ、その薬効が病気平癒に関わる神としての鬼子母神と結びついたとも考えられています。
住所:〒110-0004 東京都台東区下谷1丁目12−16
アクセス:
JR鶯谷駅南口から徒歩約5分
東京メトロ日比谷線 入谷駅2番口から徒歩約1分
・法明寺鬼子母神堂
本尊の鬼子母神(きしもじん)像は、室町時代に雑司ヶ谷に住んでいた柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門によって発掘されたと伝えられています。
発見後、お像は清められ、当時「東陽坊」と呼ばれていた寺に安置されました。
しかし、後に東陽坊の僧侶がその霊験を尊び、ひそかにご尊像を故郷に持ち帰ったところ、意に反して病に倒れてしまったのです。
その地の人々は大いに畏れ、尊像を再び東陽坊に戻したといわれています。
その後、鬼子母神への信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代には『稲荷の森』と呼ばれていた雑司ヶ谷に村人たちが堂宇を建て、現在に至る信仰の中心地が成立しました。
法明寺鬼子母神堂では不定期で「手作り市」が第三日曜日に開催され、多くの参拝客や地域の人々で賑わいます。
住所:〒171-0032 東京都豊島区雑司ヶ谷3-15-20
アクセス:
JR池袋駅東口より徒歩約15分
JR目白駅より徒歩約15分
インドの土着の神様が仏教とともに日本に伝わり、さらには日本の文化と融合して今も信仰され続けていることは、とても興味深いものです。
時代や国が変わっても、子供の健やかな成長を願う親心は変わらず、こうした祈りが人々の信仰を生み出す原動力となってきたのでしょう。
参考:『鬼子母神信仰』宮崎英修 『法明寺鬼子母神堂公式サイト』
文 / 草の実堂編集部
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