古代中国のトイレ事情

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現代の私たちにとっては、トイレに行くことに特に不便はない。
しかし、古代中国では事情がまったく異なっていた。
屋内に水洗便所など存在せず、家の外れに設けられた茅房(ぼう)まで出向かなければならなかった。
北方の厳しい冬、凍える夜風のなかで外に出るのは苦行に等しかった。
そうした環境の中で生まれたのが「夜壺(やこ)」である。

画像 : 西晋時代の青磁製便器(溺器)河南省・新洛陽市博物館「先史〜隋代陳列館」 public domain
夜壺とは、夜間に寝室のそばで用を足すための容器で、日本でいう「しびん」や「おまる」にあたる。
その起源はきわめて古い。
西周末期から戦国期に編まれた礼制書『周礼・天官』には、王の寝殿で用いる私的な器具の総称「凡褻器(ぼんせっき)」として記録されている。
時代によって呼称が異なり、周・漢代には「溺器」や「虎子」と呼ばれ、唐代になると李渊の祖父「李虎」の名を避けて「馬子」、明清期には「馬桶」や「夜壶」と称された。
戦国期の湖南長沙や春秋後期の鎮江王家山の墓からは、漆や青銅で作られた虎形の便器が出土している。

画像 : 中国・六朝時代(220〜589年)の虎形便器「虎子」Heritage Museum CC BY-SA 4.0
これらは、上層階級の生活具としての夜壺の存在を裏づける貴重な実物証拠となっている。
富裕層は、銅・陶磁・玉・漆など高級素材を用いた豪奢な夜壺を作らせ、庶民は木製や素焼きの器で代用した。
すなわち夜壺とは、寒冷と不便の中で古代人が編み出した知恵であり、その形や素材には、当時の暮らしぶりや美意識が色濃く表れているのである。
小さな口に秘められた工夫 〜女性専用の夜壺とその使い方
夜壺は、人々の生活様式や身体への配慮がされていた。
とりわけ女性が使用する際の工夫には、古代人の知恵と美意識が見て取れる。
出土例や記録から、夜壺には使用者に応じたさまざまな設計がされていたことがわかる。

画像:三国時代・呉の青磁製虎子 猫猫的日记本 CC BY-SA 3.0
一般的な男性用は、口径が8〜12センチほどと小さく、深さがあり、立位や座位で使いやすい形をしていた。
これに対し、女性向けには直径15〜20センチとやや広く、縁の部分が外側に少し反り返った形をしたものが多い。
このわずかな反りは、液だれを防ぎ、衣装を汚さずに使えるよう工夫されたものとされる。

画像:夜壺(女性用イメージ)取っ手と浅口の構造を持ち、上部が椅子状になっている。
女性用夜壺の胴部は浅く(深さ10〜15センチ程度)、重量も軽く作られ、寝殿で侍女が持ち運びやすいよう工夫が見られる。
上流階級では漆器や銅器、玉製の夜壺も存在し、唇辺には絹や綿布を巻いて肌当たりを柔らげた例も伝わる。
また、「夜壺凳(やことう)」と呼ばれる専用の小椅子もあったとされる。
高さ約30センチほどの椅子の中央に穴があり、下に夜壺を差し込むことで腰掛けたまま用を足すことができた。
老婦人や妊婦のために、手すり付きや底の広い安定型など、使いやすさを考慮した特製品も見られる。
女性の使用作法については、明代の小説『金瓶梅』などにも描写があり、帳幔や屏風で囲いを設け、寝所の片隅で静かに済ませるのが礼とされた。
用後の処理は侍女が行い、朝にまとめて外の尿桶へと廃棄する。
寝殿内に排泄物を残すことは「不浄」とされ、女性の品位を保つ作法と結びついていたのである。
こうした夜壺の設計と作法には、「女性の身体と尊厳」への配慮が読み取れる。
夜壺は単なる生活具ではなく、当時の文化の成熟を物語る器でもあったのだ。
終わりに
現代の私たちにとって、便器は日常の最もありふれた存在である。
だが古代の夜壺を見つめるとき、そこには人間の暮らしを丁寧に形づくってきた文化の記憶が息づいている。
無機質な器に見えて、その内側には、かつての人々の息遣いと美意識が確かに宿っているのである。
参考 : 『周礼・天官冢宰第一』欽定古今図書集成・経済彙編・考工典・溺器部』他
文 / 草の実堂編集部
























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