中国史

なぜ中国は常に強気なのか?歴代王朝の滅亡パターンと「農民反乱」の恐怖とは

画像:中国の習近平・国家主席。なぜ中国は攻撃的な態度を崩さないのか? public domain

連日のように報道される、中国による強硬な外交姿勢や、威圧的な軍事行動。

テレビ越しに見るその様子は、まるで世界に常に怒りを向けているかのようで、周辺国との摩擦を恐れず、国際的な批判にも動じないように見えます。

私たち日本人からすると、その態度はなかなか理解しにくいものです。

しかし、こうした振る舞いを単に「理不尽な暴力」として片付けてしまうと、背景にある本質を見逃してしまいます。

中国の行動の根底には、長い歴史の中で積み重なった深いトラウマや、広大な大陸を治めてきた支配者層が抱えてきた強い不安が横たわっています。

その考え方を理解するには、歴史の流れを大きくさかのぼる必要があるのです。

「世界の中心」が味わった屈辱の記憶

画像 : 中国のプライドを粉々にしたアヘン戦争 public domain

まず、中国という国を理解するうえで欠かせないのが、「中華思想」と呼ばれる独特の世界観です。

かつての中国王朝は、自分たちこそが文明の中心であり、世界で最も優れた存在であると考えていました。

周辺の国々は文化的に遅れた存在と見なされ、中国皇帝の徳を慕って貢物を持ってくる従属的な立場だと理解されていたのです。

こうした序列意識に基づく国際秩序こそが、彼らにとって自然で正しい世界でした。

しかしこの誇り高い世界観は、19世紀に大きく揺らぎます。

産業革命によって力をつけた西洋列強が、圧倒的な軍事力を背景に中国へと進出してきたためです。

特に1840年のアヘン戦争は、中国にとって避けがたい転換点になりました。

これまで「自分たちより下」と見なしていた相手に全く歯が立たず敗北し、一部とはいえ領土まで奪われたことは、大きな衝撃と屈辱を残しました。

その後の中国大陸は、列強がそれぞれの利権を奪い合う場となります。

イギリス、フランス、ドイツ、そして日本などが、鉄道の敷設権や港湾の租借地を獲得し、中国の主権を次々と浸食していきました。

この屈辱的な体験は、現代中国に「弱肉強食」の教訓を深く刻み込みました。
「力がなければ国は守れない」「弱ければ食い物にされる」といった感覚が強く刷り込まれたのです。

この感覚は現代の国家運営にも引き継がれており、軍事力の増強や強気の外交を重視する背景の一つになっています。

加えて、国際社会での主導権争いや国内の統治安定といった要請も重なり、現在の強硬姿勢を形づくっているのです。

歴史が証明する「王朝滅亡」の特異なパターン

画像 : 後漢を衰退に導いた黄巾の乱(イメージ) by草の実堂(AI)

対外的なトラウマに加え、中国の支配者たちを震え上がらせているもう一つの要因があります。

それは中国史特有の「王朝滅亡のパターン」です。

もちろん世界各地でも反乱は起きていますが、中国では王朝交代の局面で大規模な農民反乱が絡むことが多く、中国史の際立った特徴といえます。

秦を滅亡に追いやった「陳勝・呉広の乱」、後漢を揺るがした「黄巾の乱」、唐を衰退させた「黄巣の乱」、そして明を滅ぼした「李自成の乱」など、これらはすべて生活に困窮した農民たちが蜂起し、巨大な帝国を転覆させた事例です。

広大な中国大陸において、一度火がついた民衆の怒りは野火のように広がり、手のつけられない破壊力となります。

この歴史的事実は、現代の支配層にとっても決して他人事ではありません。

「水は舟を載せ、また舟を覆す」という古い言葉が示すように、民衆という水は皇帝という舟を支えることもあれば、怒りによって覆すこともあります。

中国の統治者は、こうした恐怖心を長く抱え続けてきたのです。

「都市」の西洋革命と、「農村」の中国革命

画像 : フランス革命に象徴されるように、ヨーロッパの場合は「革命は都市から始まる」 public domain

ここから見えてくる興味深い点として、西洋と中国における「革命」の性質的な違いがあります。

フランス革命に代表されるように、ヨーロッパにおける革命は主に「都市」から始まります。

パリのような大都市で、知識人や市民階級(ブルジョワジー)が議論し、バリケードを築き、政権を倒す。
つまり、革命の中心地は政治・経済の中枢である都市部にありました。

これに対して、中国の革命は力学が異なります。

現在の中国共産党を率いた毛沢東が採用した戦術は「農村から都市を包囲する」というものでした。

都市部での正面衝突を避け、支配の目が届きにくい広大な農村地帯に入り込み、そこで農民を組織化して力を蓄える。
そして十分に膨れ上がった農民軍の波で、最終的に都市を飲み込むという戦略です。

西洋型の感覚では、都市さえ押さえておけば政権は安泰かもしれません。
しかし中国においては、都市が平穏であっても、見えない農村の奥深くで反乱の芽が育っている可能性があるのです。

広大すぎるがゆえに目が届かない「地方」こそが、体制を脅かす最大の火薬庫になり得るという構造的リスクです。

中国共産党自身がこの手法を用いて、国民党政権を打倒しました。

自分たちが「農村からの包囲」で勝者になったからこそ、彼らは誰よりもその戦術の恐ろしさを熟知しています。

「同じ手を使われるかもしれない」という疑念は、彼らの脳裏から離れることはないでしょう。

画像 : 農民を巧みに利用し、革命を成功させた毛沢東 public domain

「過剰な情報統制」という必然的帰結

こうした歴史的背景を踏まえると、現代中国で行われている徹底的な情報統制の理由が見えてきます。

なぜ中国共産党はインターネットを遮断し、SNSの書き込みを監視し、顔認証システムを国中に張り巡らせるのでしょうか。

それは広大な国土の隅々でくすぶるかもしれない「不満の火種」を、早期に発見して消し止めるための合理的な防衛策なのです。

かつて陳勝や呉広が「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王や諸侯に生まれつきの区別などあるものか)」と叫んだとき、その声が全国に届くには時間がかかりました。

しかし現代のインターネット社会では、たった一人が発信した怒りが瞬時に数億人の共感を呼び、巨大なうねりとなる可能性はゼロではありません。

かつての農村のように、あらゆる場所から都市を包囲するスピードは、比べ物にならないほど進化しているのです。

中国政府がデモや集会、また外国からの批判に対して敏感であるのは、こうした背景があるからです。

だからこそ、どんなに小さな芽であっても、徹底的に、そして容赦なく摘み取らなければなりません。

外への「強がり」は、内への「不安」の裏返し?

このように歴史を辿っていくと、中国という国家の行動原理が立体的に浮かび上がってきます。

対外的に強硬な姿勢を取り、「強い中国」であることを示し続けるのは、国内に向けたアピールでもあります。中国共産党が、かつて列強に受けた屈辱を払拭し、国を立て直した存在であると示し続ける必要があるからです。

もし外交で弱さを見せたり、経済成長が鈍ればどうなるか。

そのときは歴史の法則が再び動き出し、民衆の不満が「新たな王朝」を求めて爆発するかもしれません。

彼らの視線は外側に向いているように見えても、その背後にいる14億人の自国民に最も注意を払っているのです。

中国共産党の強権的な振る舞いは、自信の表れであると同時に、歴史が刻んできた恐怖と向き合う姿とも言えるでしょう。

参考文献:橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司(2013)『おどろきの中国』講談社
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

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