
画像:歴代の中国王朝は「化外の地」として台湾を重要視してこなかった(イメージ図)
最近、ニュースでは「台湾有事」「中国による台湾侵攻」という言葉を多く耳にします。
多くの専門家は、中国が台湾統一を狙う理由をこう説明しています。
「世界最先端の半導体産業を確保するため」「太平洋進出のための戦略的拠点を必要としているため」
確かに現代の地政学的・経済的な視点から見れば、十分に理解できる理由です。
しかし、ここで一つの疑問が生まれます。
もし経済的・軍事的な利得こそが主たる動機であるのなら、なぜ中国共産党(中華人民共和国)は、台湾が当時まだ貧しい農業地域にすぎなかった1949年の建国直後から、一貫して強い執着を示し続けてきたのでしょうか。
この点を理解するためには、現代的な損得勘定(合理性)だけではなく、中国の歴史原理にも目を向ける必要があるでしょう。
その鍵となる概念が「易姓革命」と「天命思想」です。
古代から受け継がれてきた統治思想が、現代の中国指導部の意思決定にも深い影響を及ぼしていると考えられます。
今回は中国の対外姿勢を、「易姓革命」と「天命思想」に基づいて読み解き、中国が台湾に拘る背景について考察していきます。
地政学だけでは説明しきれない? 中国史における「台湾」の扱い

画像 : 台湾海峡 public domain
まず歴史的な事実関係を簡単に整理します。
中国の歴代王朝は、漢や唐の時代から、モンゴル高原や中央アジア、朝鮮半島、ベトナムにまで軍を送り出し、大陸の周辺地域へ積極的に勢力を広げてきました。
しかし、大陸のすぐそばにある大きな島(台湾)は、長いあいだ積極的な征服対象としては位置づけられてきませんでした。
中国王朝の中心部から見れば、古代から中世にかけての台湾は、行政や軍事力の実効的な支配が十分に及んでいない「化外(けがい)」の地域として扱われることが多く、政治的周縁として位置づけられてきました。
この認識は近代に入ってもしばらく続きます。
1871年に発生した宮古島島民遭難事件をめぐり、日本政府が清朝に対して責任の所在を確認した際、清の外交当局(総理衙門)は、台湾南部の先住民社会について「化外の民であり、清政府の統治がおよばぬ地域で起きた事件である」と回答し、責任を否認したと記録されています。
つまり当時の清にとって、台湾は「中華帝国の重要な領土」というより「周縁部の一地域」という扱いに近かったのです。
その後、清は台湾を版図に組み込み、行政機構の整備を進めましたが、中国史全体の長い時間軸で見れば、台湾が一貫して領土として扱われてきたとは言いがたい側面があります。
それにもかかわらず、現代の中国共産党は台湾を「神聖にして不可分の領土」と位置づけ、「国家統一は歴史的使命である」と強調しています。
この大きな転換を読み解く手がかりとなるのが、「易姓革命」という概念です。
中国史を貫くプログラム「易姓革命」と「天命思想」とは何か

画像:王朝の交代(断絶)を意味する易姓革命(イメージ図)
中国共産党を含めて、中国の歴史を「王朝の連続」として理解しようとするなら「易姓革命」という考え方は避けて通れません。
これは、単なる政権交代を意味するのではなく、「天(神)」が地上の支配者を選び替えるという、宗教的かつ政治的な正統性のシステムだからです。
現代の私たちは「革命(Revolution)」という言葉を「社会構造の急激な変革」「体制の転覆」といった意味で使います。
しかし古代中国における「革命」は、やや違うニュアンスを持っていました。
「命(天命)」が「革(あらた)まる」。
すなわち天帝(神)が「お前にはもう徳がない」として現在の支配者を見限り、新たな有徳者に天命を授け直すことを意味します。
このとき支配者の家系(姓)が変わることが多いため、「易姓革命」と呼ばれるようになりました。
殷周革命が生み出した「勝てば官軍」の原理

画像 : 紂王と妲己 public domain
この天命思想が政治論理として整えられたのは、紀元前11世紀頃の「殷周革命」まで遡るとされます。
当時、古代王朝「殷(いん)」の紂王(ちゅうおう)は、酒池肉林の乱行で悪名高い暴君として語られています。
これに対して徳の高い「周」の武王が反乱を起こし、牧野の戦いで殷を打ち倒しました。
しかし、周の側は一つの難問に直面します。
「臣下が主君を打ち倒すのは、最大の大罪ではないのか」という批判です。
この問いに答えるために整えられた論理こそが「天命思想」でした。
・王が偉いのは個人が特別だからではなく、天から「天命」を預かっているからである。
・王が悪政を行えば、天命はその王から離れ、別の有徳者に移る。
・したがって殷に対する周の勝利(結果)が、天命がすでに周に移っていた証拠である。
このように「勝った側こそが正義であり、正統だ」と宣言するための理屈です。
ただし重要なのは自らの正統性を確立するには、前の王朝を中途半端に残しておくわけにはいかないという点です。
前王朝の王やその一族、象徴となる存在がどこかで生き延びていれば、「天命はいまだに彼らにあるのではないか」という疑念がくすぶり続けます。
新しい政権は「天命を継いだ王朝」というより「正統政権に反旗を翻した簒奪者」と見なされかねません。
そのため中国の新王朝は、前王朝の残党を可能な限り排除しようとする傾向を強く持ちました。
日本のように「万世一系(一つの王家が続く)」という建前を持つ国とは異なる、中国史特有の過酷なルールを見ることができます。
歴史は韻を踏む「明」と「清」が見せた執念

画像 : 洪武帝(朱元璋)の肖像画(国立故宮博物院蔵)public domain
「前王朝の影を絶つ」という発想をよく表している事例が、中国史にはいくつもあります。
その中でも現代の台湾問題を考えるうえで、示唆的なのが「明」と「清」の行動です。
14世紀、漢民族による「明」王朝を建てた洪武帝や永楽帝は、モンゴル高原へ戻っていった元(北元)に対して、しつこいほど軍事遠征を繰り返しました。
元はすでに中国本土の支配権を失っており、形式上は明が中華帝国の支配者です。合理的に考えれば「遠い草原の勢力」として放置する選択肢もあったはずです。
それでも明の皇帝たちは莫大な国費と兵力を投じ、不毛な砂漠や草原に何度も出兵しました。
その背景には元の皇帝がどこかで存続している限り、「天命は依然としてモンゴル側にあるのではないか」という不安があったと考えられます。
彼らにとって元王朝を「完全に終わらせた」と言える状態こそが、自らを「正統な皇帝」と胸を張るための条件だったわけです。
さらに現代の台湾情勢と構図がよく似ているのが、17世紀の「清」王朝です。
清は満洲族の王朝で、中国本土を征服したあとも、漢人王朝である「明」の残存勢力と対峙し続けました。
明の有力武将・鄭成功(ていせいこう)一族は、大陸から追われて台湾に拠点を築き、清に抵抗を続けます。

画像 : 鄭成功軍の占領地と影響圏 (赤:鄭成功軍の占領地域、薄い赤:鄭成功軍の勢力圏)Ifatson CC BY-SA 3.0
清朝は明の遺臣である鄭成功の勢力を断つため、1661年に「遷界令(せんかいれい/遷海令)」と呼ばれる大規模な強制移住政策を発令しました。
この命令は海禁政策の一環として実施され、広東省から山東省に至る沿岸部30里(約15km)以内に住む全住民を強制的に内陸へ移住させ、沿岸地域を無人化するという、極めて苛烈なものでした。
政策の狙いは、鄭成功が沿岸部の住民から物資補給を受けるのを断ち、海上に孤立させることであり、実際にこの措置によって鄭氏勢力は補給路を失い、台湾へ拠点を移転せざるを得なくなりました。
遷界令は再三強化され、1683年、ついに鄭氏政権は清に降伏し、ここに明の残存勢力は完全に消滅します。
しかし、あれほど大掛かりな作戦を行って手に入れた台湾に対し、清朝は長期的な大規模開発や本土並みの投資を進めることにはあまり熱心ではありませんでした。
行政制度は整えますが帝国の中心として重視するというより、やはり半ば「辺境」としての位置付けにとどまります。
つまり台湾の制圧は、清が「天命を継いだ正統王朝」であることを内外に示すための、象徴的な儀式としての側面を持っていたと考えられるのです。
現代の「王朝(中国共産党)」が抱える正統性のジレンマ
ここまで見てきた歴史的なパターンを当てはめると、現代の中国共産党の行動がやや違った角度から見えてきます。
1949年、毛沢東率いる中国共産党は、蒋介石率いる国民党(中華民国)を中国本土から追い出し、中華人民共和国の成立を宣言しました。

画像:台湾へ逃げ込み中華民国を存続させた蒋介石 public domain
その一方、蒋介石ら国民党政権は台湾へ移り「自分たちこそが中国全土の正統政府である」と主張しながら、中華民国の継続を宣言します。
こうして中国本土の共産党政権と、台湾に移った国民党政権という「二つの中国」が並び立つ構図が生まれました。
国際社会も当初は中華民国(台湾)を中国代表として承認していましたが、1970年代に入ると、中華人民共和国を正式な代表として認める方向へと次第に移行していきます。
そして中国大陸(中国共産党)側の目線で見ると「前政権である中華民国が完全には消えておらず、台湾で生き延びている」という事実が残り続けたことになります。
易姓革命と天命思想の枠組みで眺めると、前王朝の残影が台湾に残っているという構図にも映ります。
その観点に立つと、中国共産党が置かれている立場はこう整理できます。
「共産党政権は大陸を支配している現実の統治者であるが、前政権(中華民国)が完全には滅んでおらず『もう一つの中国』として台湾に存在している」。
伝統的なロジックからすると、どこか「決着がついていない」状態なのです。
合理性だけでは読み解けない領域
中華人民共和国の建国当初、台湾には現在のような半導体産業もなく、豊かな資源があったわけでもありません。
また、共産党自身はマルクス主義を掲げており、公式には「天命」や「易姓革命」を認めてはいません。
それにもかかわらず「台湾解放」を掲げ続けた背景には、経済的・軍事的価値以上に「前政権が台湾で生き延びている状態を放置すれば、自らの正統性が宙ぶらりんになる」という意識があったと考えられます。
言い換えれば台湾統一とは、領土拡張の問題であると同時に、政権が「正統な中国」であり続けるための歴史的な「けじめ」という側面を帯びていると言えるでしょう。
こうした背景を踏まえると、中国の台湾政策には、地政学や経済合理性といった近代的な理屈だけでは説明しきれない領域が存在していることが見えてくるのです。
参考 :
・岡田英弘(2004)『中国文明の歴史』講談社
・岡本隆司(2004)『属国と自主のあいだ―近代清韓関係と東アジアの命運―』名古屋大学出版会
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部
























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