女帝・則天武后
則天武后(または武則天)は、中国史上において唯一の女性の皇帝です。
彼女が生きた7世紀の唐は、男性優位社会である上に貴族・権威主義で、生まれが出世に大きく左右しました。そんな時代にあって、彼女は一介の後宮女官から側室、皇后、果ては女帝へと成り上がっていきます。まさに女傑と言うに相応しい人物です。
ただ、パワフル過ぎるがゆえに、とにかく負けず嫌いで、好戦的な性格でした。己の望みのためならば、ライバルはもちろん、自分の子供すらも手に掛ける、苛烈な逸話はよく知られます。
そんな則天武后の人格形成に強い影響を与えた半生について調べてみました。
資産家の娘
則天武后の本名は、「武 照」。利州(現在の四川省辺り)という地方官僚の次女として生まれました。
武の一族は、代々材木運搬業で財を成した商家でした。商人ですので、当時の支配階級「武川鎮軍閥」には属しておらず、いわゆる成り上がり者で、武照の父も高官とは言え、身分は低いままでした。
しかし、武照の母は王族の血を引いた由緒正しき名門のお嬢様。しかも、両親の仲人を務めたのは、時の皇帝・太宗と皇帝の妹姫・長広公主です。
そのため、武照は皇帝とも関わりを持つ高貴な血筋の娘で、武照自身もそのことに誇りを持っていました。
恵まれた少女時代
武家はかなりの資産家であったため、武照の幼少時代は裕福なものでした。
上流階級の娘として幼少の頃より高度な教育を施されます。彼女自身も学問を好み、食事中も書物を離すことなく勉学に励み、楽器演奏や舞踊といった芸事に対しても研鑽を積みます。
武照は幼名を「媚娘」と命名されています。日本語に訳すと「美しい女の子」といったところでしょうか。由来はそのまま、綺麗な容姿であったことからです。
赤ん坊の頃から極めて美しく、成長する毎に美貌は磨きがかかっていきました。歴史書の「史書」によれば、少女時代の武照は、漆黒の艶やかな髪、切れ長で大きな目、雪のように白い肌、桃色の唇、薔薇色の頬などの特徴を挙げています。そして、その美少女ぶりは地元でも評判になる程でした。
聡明な頭脳に、愛らしい容姿。両親からも深い愛情を受け、すくすく育っていきました。
兄からのいじめ
武照が12歳の時、父が亡くなります。それまでの豊かな生活から一変して、武照は厳しい暮らしを強いられます。
武照の母は父の後妻で、先妻との間に2人の息子(武照にとっては異母兄)がいました。家長の父が死んだことで、異母兄たちは従兄とともに武照を虐め始めます。武照の母が自分たちよりも高貴な身分の出身であることが理由でした。
気の強い武照はいじめに屈せず、異母兄たちに強く反発します。そんな武照に対して、異母兄たちはさらに執拗に虐める……、という日々でした。それでも挫けることはなく、「いつか必ず復讐してやる」と武照は固く心に誓います。
皇帝の後宮へ
武照の父の死と時を同じくして、皇帝・太宗の皇后が亡くなります。皇后の死去を受けて、王宮では後宮の再編成を行うことになりました。
武照の暮らす利州は首都の長安から離れた片田舎でしたが、武照の噂を耳にした役人が、宮中へ招くため、わざわざ長安から様子を見にやってきます。武照は異母兄を見返す絶好のチャンスを逃すまいと、強く後宮入りを望みます。
これを受け、武照の母は、かつて自身の結婚の時に仲人を務めてくれた長広公主を頼ります。長広公主は母子の願いを聞き届け、武照の入宮を推薦します。
父の死の翌年、13歳になった武照は、満を持して後宮へ入ることとなりました。
苦難続きの後宮生活
後宮に入った武照は、「才人」の位を賜りました。
唐の官僚には一品から九品までのランクがあり、後宮の女性たちにもそれに準じた格付けがありました。
「才人」は正五品という低い地位で、側室と言うよりは皇帝に仕える女官の位置付けです。事実、才人にとって最も大事な仕事は、「皇帝と寝所を共にする」ことではなく、「皇帝の寝具を交換する」ことでした。
それでも、抜群の美貌を誇った武照は、入宮してすぐに皇帝の目に留まり、寵愛を受けることができました。しかしそれも束の間、間もなくして、武照は皇帝の寝所へ呼ばれることがなくなってしまいました。
原因は、天文や気象を司る部署・太史局が出した予言でした。「唐三代の後 女の武王 代わって天下を有す」というもので、太宗はこれを「武の名を持つ女が王朝に災いをもたらす」という意味だと考え、武照を遠ざけたのでした。
後宮の女性にとって、皇帝の寵愛を得ること、皇帝の子を持つことが出世の唯一の道です。どちらも不可能となった武照は、女官として、粛々と職務を全うする毎日を過ごすことになります。
起死回生の策
太宗から遠ざけられた武照ですが、武照自身も太宗に見切りをつけます。美ではなく、智を磨くことに重きを置き、時には太宗と臣下の会議を盗み聞いて、生きた政治を学びます。武照は十年以上に渡って、こうした努力を重ねました。
そんな中、太宗が病に倒れます。後宮の掟では、子のいない側室は皇帝の死と共に出家することが決まっています。
このままでは、尼寺で生涯を終えることになってしまいます。
しかし、武照はそんなピンチすらもチャンスに変えます。病床の太宗の元へ見舞いに来る皇太子に接近し籠絡、深い関係を持ったのです。
太宗は半年後に崩御し、皇太子は新たな皇帝(高宗)に即位します。武照も掟に従い寺へ出家しますが、わずか3年後、高宗の後宮へ迎えられます。位は二品の「昭儀」という高位。しかも、皇后のお墨付きでした。
王宮へ戻った武照は、ここから女帝への道を邁進していくことになるのです。
おわりに
傍若無人で絶対的権力者だった則天武后ですが、前半生は意外にも苦境に満ちていました。幼い頃に幸せな暮らしをしていただけに、「なぜ私がこんな目に……!」という気持ちも強かったことでしょう。だからこそ、その気持ちを支えに、どんな逆境を乗り越えてきたと考えられます。
また、彼女にはシンデレラのような「窮地を救ってくれる王子様」がいなかったことも特徴的です。どこからか救世主が現れるでもなく、どんな困難も自らの手で解決せねばならぬ状況に追い込まれています。
則天武后が悪女と評される程の強さを持っていたのは、元からの性格ではなく、生き抜くために自然と身に付いていったものと言えます。
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