妲己(だっき)とは、紀元前11世紀頃の古代中国・殷王朝の最後の王、紂王(ちゅうおう 名は帝辛)の寵姫である。
紂王と妲己の出会い
紂王(ちゅうおう)は紀元前17世紀頃から600年間続いた古代中国・殷王朝の第30代王である。そして殷王朝の最後の王となった。
紂王は外見も美しく文武両道で頭の回転も早く、猛獣も素手で倒せるほどの力もあり弁舌に優れていた。そのため自身を過剰に評価し、部下の諫言を聞き入れず得意の弁舌で丸め込んでいた。
そして次第に暴君となっていったのである。
紂王が有蘇氏(蘇の国を有する諸侯)との戦いに勝利した際に、敗北した有蘇氏は娘を献上した。その娘が妲己(だっき)であった。
この頃の妲己は10代でありながら物怖じせず媚びることも無い様子であり、男性を虜にする妖しい魅力のある美女であった。
紂王はすぐに妲己の虜となり多くの財を与えて、彼女のあらゆる要求をかなえ、妲己の言いなりとなっていった。
酒池肉林
妲己を喜ばせるために紂王が考えたとされる「酒池肉林」とは、快楽の極みともいえる遊びであった。
民には重税を課し、鹿台という建物の中を宝で満たして倉庫に穀物を蓄えた。淫靡な曲を流し、庭園の木々には大量の干し肉を吊るして酒の池をつくった。
そして大勢の裸の男女を集めて戯れさせたのだった。その様子を見ながら紂王と妲己も日夜、裸で戯れたという。
このような派手で淫らなパーティーが連日行われていたのである。
この紂王と妲己の欲にまみれた酒宴は「酒池肉林」の語源となっている。
残酷な処刑方法
また妲己は、猟奇的であり残酷なことを好んで快楽を得るという人物であった。
自分の気に入らない者はことごとく処刑し、人の命をまるでおもちゃのように扱っていた。贅沢な暮らしをして先述した酒池肉林を紂王と共に行い、臣下の中にはそれを諌める者もいたが、紂王に諫言した臣下はことごとく処刑された。
その処刑法として「炮烙 : ほうらく」というものがあった。
妲己が発案したといわれるこの処刑法は、多量の油が塗られた状態で火に炙られている銅製の丸太を渡し、その上を罪人に裸足で渡らせ、渡りきることが出来れば免罪・釈放とするものであった。
しかし油が塗られている丸太では滑り、丸太に必死にしがみついても下に落ちて焼け死んでしまう。その様子を見て紂王と妲己は抱き合って笑い転げていたという。また、直接業火で熱せられた銅柱に縛りつけて焼き殺す方法もあった。
紂王の叔父である比干(ひかん)という忠臣がいた。
比干は炮烙の刑などの残酷な行為を止めさせようとして、紂王に「先王の典法をおさめずに婦人の言を用いていれば禍のいたる日も近いでしょう」と諫言した。
しかし紂王は聞く耳を持たず、妲己は紂王に「聖人の心臓には7つの穴があると私は聞いております。これを見てみたいものです」と囁き、紂王はその言葉通りに比干の胸を切り開かせ、心臓を取り出させて確認したのだった。
その心臓を見て「比干は聖人ではなかったのか、穴が無いではないか」と紂王と妲己は笑っていたという。
他にも残酷な処刑法がある。
・「醢」(ししびしお)と「脯刑」
「三公」と呼ばれる重職があった。西伯昌(姫昌)・九侯・鄂侯がその地位に就いていた。
九侯には美しい娘がおり紂王はその娘を妾にした。しかし娘は淫蕩を好まず紂王はそれが気に入らず腹を立てた。また九侯と鄂侯に謀反の疑いがあると知った紂王は、娘と九侯を殺し醢刑に処した。
これは受刑者を殺しその肉を削ぎ落とし、塩漬けにする刑である。「人間を塩辛にする刑」ともいわれ、死体を辱め人々の恐怖心を煽るものであった。また、生きたまま肉を削ぎ塩漬けにするという方法もあったとされる。
そして鄂侯は脯刑に処された、これは「受刑者を干し肉にする刑」である。これも人々の恐怖心を煽るものであった。
三公の残りの1人である姫昌も疑われて幽閉されたが、領地や宝を献上し最終的に釈放された。その後は周国で仁政を行ったという。
紂王と妲己は理不尽で残酷な処刑を繰り返し、そのため殷から逃げ出す人々が後を絶たなかった。
殷王朝の最後
多くの臣下が殷を捨てる中、周国では仁政が行われて人徳のある姫昌(きしょう)が人望を集めるようになっていった。
姫昌が没した後は、姫昌の息子である姫発(後の武王)が後を継ぎ、諸侯達を率いて殷を相手に戦争を起こした。(牧野の戦い : ぼくやのたたかい)
この牧野の戦いでは、兵の数では殷は有利であったにも関わらず、紂王のために戦おうとする者はほぼおらず、殷の兵は周の味方となり勝敗はすぐについた。
紂王は殷の首都・朝歌へ逃げ帰って鹿台に火をつけ焼身自殺し、妲己も武王に首を斬り落とされた。
こうして殷は滅び、周王朝が成立したのである。
妲己と九尾の狐伝説
人間とは思えない残虐行為を繰り返した妲己。実は妲己の正体は「九尾の狐」であったという噂が後に広まった。
九尾の狐は、古代中国では「縁起の良い瑞獣」とされている。一方で「美女に化けて人々に悪事をする、人を食い殺す」という伝承もある。
妲己の正体が九尾の狐だと記されたのは、元の至治年間(1321〜1323年)に刊行された「全相平話」の中の「武王伐紂書」である。
この中でも妲己は、「酒池蠆盆の刑」という残酷な刑を発案している。これは2人の罪人を戦わせ、勝者は酒の池へ入れ敗者は蠆盆(たいぼん)へ落とすというもので、蠆盆とは毒蛇やサソリが数千匹入れられた穴であり、落とされた者はその毒で苦しみ死ぬ。そして勝者も大量の酒で酔い溺れて死ぬという刑である。
妲己がそれを楽しそうに眺めている場面がある。全相平話は中国の歴史上の出来事にフィクションを盛り込んだ大衆向けの歴史物語であり、後の明代に成立した神怪小説「封神演義」にも影響している。
封神演義の話の中でも妲己の正体は「狐の妖怪」と記されている。その内容は妲己という美女の身体を手に入れた狐の妖怪が紂王を誘惑し、殷を滅亡に導くというものである。
この九尾の狐だが、殷が滅んだ後に、なんとインドや周の時代にも再び古代中国に現れ、やはり人々を混乱させたという。
その後は海を渡り、日本では鳥羽上皇の寵姫・玉藻前の化身であるという伝説となった。その後は下野国(現・栃木県)に逃げ、巨大な石に化身し、近づく生き物を殺す石として伝えられた。
この石は那須町の「殺生石」として存在している。
妲己という存在
残虐な行為を繰り返した妲己とは一体何者だったのだろうか。ただのサイコパスだったのか。それとも周王朝を正当化するために後世の人々によって、悪しくそして都合良くつくり上げられた存在なのだろうか。
というのも、殷が滅亡したのは紂王が遠征軍を派遣した隙を突いて、周の武王が殷を滅ぼしたとされているからだ。紂王も名君であったとされている。
そもそも妲己は史書では触れられているが、殷墟(殷の遺跡)からは妲己に関する記録が見当たらないという。そのため存在自体が疑わしいという説もある。
しかしその謎の部分も、人々を惹きつける妲己の魅力なのかもしれない。
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