常勝無敗
紀元前403年、晋(しん)の分裂によって春秋時代は終わりは告げ、中華の地は春秋戦国時代に突入。
弱小国は大国に次々と併呑されていき、中華は「戦国七雄」と呼ばれる国家が並び立つ時代へと移り変わります。
そのような中、西方の「虎狼の国(ころうのくに)」とも呼ばれる「秦(しん)」は着々と力を蓄え、遂に他国を圧倒するほどの勢力へと成長します。
その秦をここまで成長させたのが今回紹介する白起(はくき)です。
その凄まじい武略により殺害した兵の数は100万近くであり、現在連載中の人気漫画「キングダム」においても、「秦六大将軍筆頭」を称されるほどの伝説の将軍です。
生涯不敗を貫き秦の覇業に貢献するも、その殺戮の所業から、遂に悲劇を迎えてしまった伝説の将軍の軌跡を追います。
虎狼の国へ仕える
名を白起。またの名を公孫起(こうそんき)とも。秦の国都である咸陽(かんよう)の西に位置する郿県(びけん)の人と呼ばれるも、生年等は一切不明であり、一説には楚(そ)の国の王族であった白公勝(はくこうしょう)の末裔とも言われています。
いつ白起が秦に仕えたのかは不明ですが、厳格な法治主義とよそ者であっても実力さえあれば高位に取り立てる制度を採用していた秦に白起は己の武才を託し、一兵卒として仕え始めたのではないかと考えられます。
秦の将軍へ
この時、秦を治めていた昭襄王(しょうじょうおう)は中原の地に進出すべく勢力拡大を目指しますが、戦国四君(せんごくしくん)の一人として名高い孟嘗君(もうしょうくん)の呼びかけにより、斉・韓・魏の三国による合従軍が実現。
紀元前296年、秦軍は函谷関(かんこくかん)の戦いにおいて合従軍と激突しますが大敗を喫し、魏と韓に領土を割譲して和睦を結ぶという屈辱を味わされます。
しばらくは戦力の回復に努める秦でしたが、紀元前294年、秦の宰相である魏冄(ぎぜん)は名もなき兵卒である白起の才能を高く評価し、彼を抜粋して左庶長(秦の爵位の一つ)に昇進させます。
一兵卒から兵を率いる立場となった白起の活躍は素晴らしく、その年、韓の新城を攻撃すると瞬く間に敵軍を撃破。
翌年には2階級特進し、魏冄や昭襄王からもその活躍を期待されます。
伊闕(いけつ)の戦い
紀元前293年。再び動き出した秦に対抗すべく、韓と魏の二カ国は改めて同盟を締結します。
さらに周王朝をも同盟に加えることに成功したため、韓・魏・周の三ヵ国は25万の大連合軍を結成。魏の公孫喜(こうそんき)が総大将となり秦軍討伐へと出陣します。
一方、秦軍は連合軍の約半分ほどの兵力でしたが、白起は連合軍はまとまっていないことを看破し、先に弱兵である魏軍に猛攻を加えます。
白起の猛攻撃により魏軍は崩壊し、総大将の公孫喜は捕虜となってしまいます。
総大将を失った韓軍は逃走しますが、白起の追撃は凄まじく、この伊闕の戦いで白起が挙げた首級の数は24万であったとされています。
この功績により白起は秦軍司令長官の位へ昇進し、その後も魏の城大小合わせて61城を陥落させるという驚異的な功績を挙げます。
殺戮止まらず
以下、この後の白起の虐殺をまとめてみました。
鄢・郢の戦い(えん・えいのたたかい)
伊闕の戦いの後、隣国の楚は秦と講和を結ぶが、紀元前291年に講和は破綻し、両国は交戦状態に突入。
紀元前279年、出陣を命じられた白起は楚の鄢(えん)城まで攻め上がると、堤防を築き鄢城を水攻めにし、城内の軍民合わせて10数万を溺死させた。
翌年、白起は楚の都である郢(えい)を陥落させると、楚の陵墓を暴いて焼き払った。
華陽の戦い(かようのたたかい)
紀元前273年、魏と趙の二カ国が韓の華陽(かよう)に侵攻すると、韓は秦に援軍を依頼。
秦は白起、魏冄、公孫胡昜(こうそんこしょう)らに軍を率いさせたところ、軍は一日100里の行軍の速度で進んだため、趙・魏軍は奇襲を受けて壊滅。この後、白起は魏軍13万を処刑すると、捕らえた趙軍の2万を黄河へと流し溺死させた。
紀元前264年になると、もはや小国の韓に義理立てする必要もなくなり、秦は白起に韓侵攻を命令。韓の陘城(けいじょう)を含む、9つ城を取り、韓軍5万を斬首した。
この時点で白起が殺害した人数は50万以上を超えています。
しかし、次に行われる「長平の戦い」にて白起の虐殺は真骨頂を迎えることとなるのです…。
長平の戦い
紀元前262年。白起による韓攻略は激しく、韓の北方の領土である上党郡(じょうとうぐん)は飛び地となり孤立してしまいます。
「もはや上党郡を救うことは不可能…」と見た韓王は上党郡を秦に差しだそうとしますが、秦の圧政下に入る事を恐れた上党の民衆は、郡守と共に趙へと寝返ってしまいます。
昭襄王は将軍である王齕(おうこつ)に上党攻略を命じますが、趙の大将軍廉頗(れんぱ)は長平に要塞を築き籠城。戦いは長期戦に持ち込まれ秦軍は苦戦します。
これに対し、秦の宰相である范雎(はんしょ)は計略を用いて、廉頗を更迭することに成功し、口先だけの若造である趙括(ちょうかつ)が趙の総大将に任命されます。
さらに白起は密かに王齕軍に合流しており、一気に趙軍を殲滅を計画します。
40万生き埋め
趙軍総大将の趙括は40万の大軍勢をもって秦軍に大攻勢を仕掛けますが、白起は囮の部隊で退却すると見せかけて趙軍を誘い出し、2万の軍にて趙軍の補給路と退路を遮断。
補給が途絶えた趙軍は瞬く間に疲弊し、一か八かの突撃を賭けた趙括は戦死し、趙軍のほとんどは捕虜となってしまいます。
さらに白起は秦軍に捕虜を養う食糧に余裕がないことと、この捕虜たちを生きて返せば趙攻略は難しくなることを懸念し、なんと捕虜40万人を生き埋めとして処刑してしまいます。
白起、その最後
40万を処刑した白起はそのまま趙の都である邯鄲(かんたん)を攻略しようとしますが、ここで急遽、戦いを停止せよとの王命が入ります。
白起のこの所業を知った宰相の范雎は白起の力を恐れ、このままでは自らの地位がいつか脅かされると考えたのです。
この命令を聞いた白起は激怒し、范雎と昭襄王を酷く憎むと、病と称して自らの邸宅に引き籠もってしまいます。
翌年、秦は再び趙に侵攻し邯鄲を包囲しますが、白起の所業を恨む趙国民は必死になって抵抗したため、昭襄王は白起に再び出陣を命じます。しかし白起は…
趙は長平で敗れて以来、臣下はもちろん、王までが、早朝から夜ふけまで政務に励んでいます。また近隣の諸国とよしみを通じ、ひたすら秦に備えておりました。いまや趙の国力は充実し、近隣との外交も円満です。趙を討つ時機ではありません。
結果、趙の平原君(へいげんくん)、魏の信陵君(しんりょうくん)、楚の春申君(しゅうしんくん)ら戦国四君の活躍により秦軍は大敗。
この報告を聞いた白起は「私の進言を聞かなかったからだ!」と発言。これを知った昭襄王は激怒し、白起を咸陽より追放します。
そして、郊外の白起の邸宅の下に昭襄王より一本の剣が送られます。
全てを悟った白起は一人呟きます…
わたしは天に対してどのような罪を犯し、このようになってしまったのか…
そして…
わたしはもともと死ぬべきでだったのだ…殺しすぎたのだ…。
長平の戦いで降服してきた趙兵数十万を生き埋めにした…。
十分死に値する。
そう言うと白起は剣にて自らの首を描き切り、その場にて絶命。
この時、白起の副将であった司馬靳(しばきん)も白起に殉じて共に自害しており、この司馬靳の子孫である司馬遷(しばせん)が白起らの英雄の活躍を「史記」としてまとめることとなるのです。
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