毛沢東の後継者候補として林彪(りん ぴょう)という人物がいました。
1971年9月、彼が乗った飛行機はモンゴルで墜落します。林彪の死には暗殺説を含む様々な説がありますが、50年近くたっても真相は不明のままです。
文化大革命の渦中で毛沢東と対立を深め、最終的には毛沢東暗殺を企てたとされる林彪。しかし、その計画は事前に発覚し、逃亡中に墜落死したのです。
文化大革命の指導者だった林彪とは、そして毛沢東との蜜月関係が破綻した背景とは…。
今回の記事では、毛沢東の後継者として君臨し、最終的には謎の死を遂げた林彪に迫ります。
文化大革命の指導者だった林彪
林彪の死には多くの謎が残されています。毛沢東に対して林彪は次第に反発を見せるようになり、毛沢東の暗殺を企てていたという噂があります。
50年近く経った今も真相は不明のままですが、毛沢東との関係悪化が林彪の運命を狂わせたと言えるでしょう。
林彪は1907年に湖北省で生まれ、1925年に中国共産党に入党。1937年から1945年まで続いた日中戦争で実績を上げ、軍人として頭角を現します。
1959年に国防部長として軍部の絶対的な支配権を握ると、文化大革命が始まった1960年代後半から、毛沢東の右腕として革命を主導しました。
文化大革命は社会主義体制の樹立を掲げながらも、実際には毛沢東による権力基盤の強化のための政治運動でした。
中国各地で資本家や知識人への過酷な弾圧や粛清が行われ、その結果として2000万人から5000万人もの犠牲者が出たとされています。
毛沢東の暗殺計画が発覚、そして…
文化大革命の最中、林彪は1969年に党副主席に就任し、毛沢東の後継者として君臨します。
しかし、国家主席の地位を巡って毛沢東との対立が生じるようになりました。「林彪が自分の地位を狙っているのではないか」と、毛沢東が警戒感を抱いたからです。
文化大革命という困難な状況下で築かれた二人の信頼関係は、崩壊の危機に瀕していました。
林彪は関係修復を試みましたが、毛沢東の疑念は晴れることはありませんでした。
そして1971年になると、林彪が毛沢東の暗殺を企てていることが発覚します。
彼は人民解放軍の航空機で命からがら逃亡しましたが、モンゴル上空で炎上、墜落したのです。
林彪の墜落事故死には様々な説が存在します。
毛沢東による暗殺説や、側近同士の乱闘説、ソ連の攻撃説などがあります。単なる事故説も唱えられています。
毛沢東自身が逃亡した林彪を放置した可能性も指摘されるなど、真相は今も不明のままです。
文革の主導権は「四人組」へ
林彪の死後、彼に対する批判運動が起こり、文化大革命の主導権は「四人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)」に移行します。
粛清や弾圧はさらに推し進められ、自分たちに批判的な人物を次々と処分していきました。また中国は国外との国交を断ち鎖国状態となったため、国内の経済や文化の近代化が大きく遅れる結果となります。
しかし1976年、周恩来と毛沢東が相次いで死去すると情勢は一変します。
新たに首相となった華国鋒は四人組を逮捕し、11年間にも及んだ文化大革命を終結させました。
また翌年には、毛沢東の遺志を引き継ぐ華国鋒から鄧小平が権力を奪取。国家建設の指針として「四つの近代化」政策を打ち出しました。鄧小平が打ち出した改革開放政策により、中国の近代化が推進されます。
文化大革命は、一般的には国家の発展を遅らせた原因と見なされています。
最大の要因は政治的混乱です。四人組による主導体制は中国の政治を不安定なものとし、経済成長を阻害しました。さらに弾圧や粛清によって知識人や資本家は迫害を受け、経済活動や技術革新は大きく停滞しました。
他国との外交関係悪化による経済交流の制限も、国家の発展を遅らせる要因になりました。
文化大革命は中国にとって「失われた10年」という辛辣な指摘も存在します。
もし林彪が生きていたら…
もし林彪が生き延びていた場合、毛沢東との権力闘争はさらに激化し、毛沢東の暗殺に成功する可能性もあったでしょう。
もしそうなった場合、四人組の代わりに林彪が文化大革命を主導することになったため、早期の革命終結が実現したかもしれません。粛清による犠牲者数も減少した可能性もあります。
参考文献:小田桐一(2010)『歴史を震撼させた暗殺事件』彩図社
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