どうする家康

今川氏真 「生まれる時代を間違えた」 なぜ暗愚な人物とされたのか?

今川氏真

今川氏真は、かつて「海道一の弓取り」と讃えられた大名・今川義元の跡目を継ぎながら、一代にして三ヶ国(駿河・遠江・三河)を失ってしまったことで「暗愚な人物」と評価されることが多い。

大名家としての今川家を自身の代で潰してしまったことは事実であり、戦国大名としては確かに優秀ではなかったが、その後、氏真は家康の保護下で77歳まで生きたうえ、子孫は徳川の旗本として存続している。

氏真自身も、戦国大名として自身が向いていなかったことを自覚していたようで、その心情が窺い知れる和歌が残っている。

今回は「生まれる時代を間違えた」と本人も思っていた今川氏真について触れていきたい。

今川氏真の概要

画像 : 今川氏真 public domain

今川氏真の概要については以下である。

人名:今川 氏真(いまがわ うじざね)
幼名:龍王丸
別名:彦五郎、五郎、仙巖斎
官位:従四位下、上総介、刑部大輔、治部大輔
出身:阿波国・山城国西岡(現在の西京区)・摂津国五百住など諸説あり
出生:1538年
没年:1615年1月27日
父親:今川義元
母親:定恵院(武田信虎の娘)
配偶者:早川殿(北条氏康娘)
側室:庵原忠康娘
兄弟:嶺松院(武田義信室)、一月長得、隆福院、牟礼勝重室
子供:吉良義定室、範以、品川高久、西尾安信、澄存
猶子:北条氏直
主な参戦:長篠の戦い、蒲原城の戦い(どの戦も前線指揮官はやっていない可能性大、配下は前線に出ている)
関わりの深かった人物:松平元康(徳川家康)、北条氏康、塚原卜伝 等
信長の野望 新生PK:統率22、武力33、知力21、政治59、総合順位2201人中2176位
信長の野望 新生PKでの列伝
駿河の戦国大名。義元の嫡男。父の死後、家督を継ぐ。しかし、蹴鞠や和歌に傾倒し、無為の日々を送る。その結果、徳川家康と武田信玄に領国を追われた。
引用:今川氏真【新生】 | 信長の野望 徹底攻略(https://nobunaga-kouryaku.com/shinsei/database/samurai/302)

このようにコーエーからの評価も散々で、総合パラメータの順位も2201人中2176位とかなり下位である。
列伝においても、『蹴鞠や和歌に傾倒し、無為の日々を送る』とわかりやすい暗愚な扱いとなっている。

しかし、文化人としての側面を見ると和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じており、駿河の政治や経済政策も高く評価されている。
また、剣技の腕前も相当なもので剣聖・塚原卜伝から学び、皆伝の腕前であった。

つまり、個人的な能力においては文武に優れた人物だったと見てよい。

戦で武功を上げることはできなかったが、文化人の能力は平和になった江戸時代に活かされており、その能力は子孫たちにも受け継がれて幕府からも重用されている。

なぜここまで今川氏真は低評価になったのか?

今川氏真

画像 : 今川氏真 public domain

後世における今川氏真の評価が低い理由はシンプルだ。

それは『寛政重修諸家譜』『閑なるあまり』『甲陽軍鑑』『徳川実紀』『東照宮御實紀』『三浦右衛門の最後』などの様々な史料や作品で、ダメ武将として表現されているからである。

実際にどのような書かれ方をしているのか、いくつか意訳しながら見ていこう。

○『甲陽軍鑑』より
山本勘助という優れた人物が9年間も駿河国にいたのに採用せず、三浦右衛門佐のような間者を側近として重用していれば滅びるのは当たり前である。

○『閑なるあまり』より
日本を治める立場になりたいのなら足利義政のようにお茶に夢中になったり、大内義隆のように学問に夢中になったり、今川氏真のように和歌に夢中にならないことが大事である。

○『三浦右衛門の最後』より
氏真の側近は三浦右衛門佐だが、今川家の心ある人々はみんな右衛門佐にあきれており、今川家を滅ぼした元凶である。

○『東照宮御實紀』より
家康が掛川城を包囲した時、氏真が出した開城の条件は『氏真を再び駿河国の国主とする』ことだった。家康がこのことを信長に報告すると「取り柄もない氏真に与えるぐらいならわしに返せ」と言われる。

○『徳川実紀』より
父の義元が桶狭間で討たれたにも関わらず、氏真は復讐する気概すらない。

ここまで多方面から厳しい指摘をされてしまえば、暗愚扱いされても仕方ないといえそうだ。

前述したように、生前の氏真も自身の評価については自覚していたようである。

氏真は約1700もの和歌を作っており、北条家から出奔する際に詠んだ歌からその心情を窺い知ることができる。
それをそのまま記載しよう。

なかなかに 世にも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の科(とが)にして

『人も世の中も恨むことはない、この時代に自分が合っていなかっただけであり、この身の罪なのだから』

氏真は激動の時代の中でさまざまな非難を受けてきたが、その言葉は、時代の流れと自らの運命を受け入れる姿勢を示している。

その中で生き抜いたことは素晴らしいことであり、生まれる時代に相違があったと感じざるを得ない。

参考 :『寛政重修諸家譜』『閑なるあまり』『甲陽軍鑑』 他

 

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草の実堂編集部

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