宮刑を受けた男が見出した“絶世の妹”
古代中国・前漢時代の第7代皇帝、漢武帝(在位:紀元前141年〜紀元前87年)は、中国史上でも屈指の英邁な君主として知られている。

画像 : 漢武帝 聖君賢臣全身像冊 public domain
在位中には、遊牧民族・匈奴(きょうど)への遠征を成功させたほか、使者として張騫(ちょうけん)を中央アジア方面へ派遣し、いわゆる「シルクロード」の基礎を築いた。また、儒教を国家の基本理念として制度化するなど、数々の偉業を成し遂げた。
その一方で、彼の宮廷は豪奢を極め、無数の美女が後宮に集められた。
正室・陳阿嬌(ちんあきょう)に始まり、衛子夫(えいしふ)や王美人など、多くの妃たちがその時々で寵愛を受け、ある者は権勢を誇り、またある者は悲劇的な最期を迎えた。
その中でも最も異彩を放つ存在が、今回紹介する「李夫人(り ふじん)」である。
彼女は高貴な家柄の出身ではなかった。例えば兄の李延年(り えんねん)は一時、罪を犯して宮刑(去勢)に処され、宮中で犬の世話をする下級宦官にまで落ちぶれた人物である。
つまり李夫人の家は、貴族とは程遠い庶民、しかも社会的に「卑賤」と見なされる一族に過ぎなかった。
しかし、兄の李延年は歌や舞に秀でた才人で、やがて漢武帝の前で楽曲を披露する機会を得る。
とりわけ有名なのが、「北方有佳人(ほっぽうにかじょあり)」で始まる一曲である。
「北方有佳人,絕世而獨立,一顧傾人城,再顧傾人國。寧不知傾城與傾國,佳人難再得!」
意訳 : 北に美しい女あり。この世のものとも思えぬほど気高く、ひと目見れば城が傾き、ふた目見れば国が傾く。そのような佳人は、二度と得ることはできない
※佳人(かじん)とは、漢文における表現で、美しい女性、特に「容姿が優れているうえに品格や教養も兼ね備えた女性」を意味する。
『漢書』巻九十七上「外戚伝 李夫人伝」より引用
李延年がこの詩を朗詠したとき、漢武帝は深く感動し、「世にこのような佳人が本当にいるのだろうか」と嘆息したという。
ここでさりげなく話に割って入ったのが、武帝の実姉・平陽公主であった。
彼女は、自邸で芸妓を囲い、気に入った者を武帝に“献上”していたことで知られる。
かつて、後に皇后となる衛子夫を武帝に引き合わせ、その功績によって彼女の弟・衛青を将軍にまで押し上げたこともある。
平陽公主は李延年の意図を汲み、「その佳人なら、李延年の妹がそうでございます」と進言し、武帝はすぐさま召見を命じた。
こうして、李夫人は宮中へと迎えられたのである。

画像 : 李夫人 イメージ 草の実堂作成(AI)
漢武帝の目に映った李夫人は、たしかに詩のごとき美貌の持ち主だった。しかも舞の技にも長け、教養もあった。
こうして彼女はたちまち武帝の寵愛を受け、後宮で最も高い地位に昇りつめていく。
李夫人が得た栄華
李夫人が後宮に入ったのは、漢武帝が晩年に差し掛かろうとしていた頃である。
当時の後宮には、すでに多くの妃嬪たちが居並び、それぞれが美貌と教養を競っていた。だが、李夫人が登場した瞬間、彼女たちは一斉に影をひそめることになる。
もともと武帝は、女性に対して熱しやすく冷めやすい性格であり、かつての寵妃であった陳阿嬌や衛子夫に対しても、時の流れとともに冷淡な態度を取るようになっていた。
だが李夫人だけは違っていた。彼女はまるで時が止まったかのように、武帝の心の中心に居続けたのである。
李夫人には慎ましくも的確なふるまいがあった。
美貌だけでなく、舞や詩歌に秀で、皇帝の気分を損ねず、出しゃばることもない。決して権勢を振りかざすようなことはなく、静かにして宮中の秩序を乱さぬ女性であった。

画像 : 李夫人 『畫麗珠萃秀』public domain
漢武帝は、李夫人を正式に「夫人(側室)」として立てたうえ、一年後には彼女との間に男子をもうけた。
この皇子こそ、のちに「昌邑哀王」となる劉髆(りゅうはく)である。
男子を産むということは、当時の後宮において決定的な地位を確立することを意味した。
皇后である衛子夫がすでに年老いて寵を失っていたこともあり、李夫人は母として、寵妃として、実質的に後宮の頂点に君臨したのだ。
その恩恵は、李夫人の兄弟たちにも及んだ。
兄の李延年は「協律都尉」という音楽・儀礼の最高位に任じられ、さらに長兄の李広利は「貳師将軍」となり、後には海西侯に封ぜられるという破格の出世を遂げた。
弟の李季は若年で役職を持たなかったが、宮中を我が物顔で闊歩したと伝えられている。
まさに中国の故事にある「一人得道、鶏犬昇天(一人得道すれば、鶏犬も天に昇る)」という言葉通りであった。
李氏一族は、漢王朝の中枢において、かつてないほどの栄華を手にしたのである。
だが、栄光の頂点に立った李夫人には、誰にも打ち明けられない苦悩があった。彼女はもともと体が弱く、皇子を出産した後の回復も十分ではなかったのである。
しかし李夫人は、なおも武帝の寵愛に応えようと無理を重ねた。その結果、体調は日を追って悪化していく。
高熱と倦怠が続き、ついには寝台から起き上がることも難しくなった。侍医たちは口を濁し、薬湯の処方を繰り返したが、効果は薄かった。
このとき李夫人は、ある決意を胸に秘めていた。
愛されたまま死ぬ

画像 : 李夫人 public domain
李夫人の病状が悪化すると、漢武帝はますます彼女のことを気にかけ、たびたび寝所を訪れようとした。
だが、李夫人はそれをすべて断った。
「妾、病にて容色衰え、帝にお見せするには忍びません」
当初、漢武帝はその言葉を「遠慮深い妃の謙遜」と受け取っていた。
しかし、病が重くなるにつれてなおも面会を拒む李夫人の態度は、やがて帝の心に不安と焦燥を募らせていった。
ある日、武帝はついに怒りを露わにして、寝所へ押しかけた。
だが、李夫人は顔に被いをかけたまま、静かにこう告げた。
「婦人が容貌を整えずに君父に面するは、礼に反します。どうかこのまま、お引き取りくださいませ」
彼女の声はすでにかすれていたが、その言葉には不思議な威厳と決意が込められていた。

画像 : 武帝の面会を断る李夫人 イメージ 草の実堂作成(AI)
漢武帝はなおも食い下がり、「顔を見せてくれれば、兄弟たちには高官を授け、厚く遇しよう」とまで言った。
だが李夫人は、被いの下からひとことも返さず、涙を浮かべるのみであった。
その異様な沈黙に、さすがの漢武帝も苛立ちを隠せず、怒って部屋を出て行ってしまった。
この一部始終を目の当たりにした姉妹や侍女たちは、涙ながらに李夫人を責めた。
「なぜあのように陛下を怒らせたのです? 兄弟たちの運命がかかっているのですよ!」
すると、李夫人は静かにこう答えたという。
「私は美貌により帝の寵愛を受けました。人の心とは移ろいやすいもの。
もし、今の私のやつれた姿を見れば、陛下はきっと幻滅し、かつての情も冷めるでしょう。そうなれば、私の死後に家族を顧みてくださることもなくなります。
いま私が顔を隠しているのは、愛情を保つため、家族を守るためなのです」
『漢書』巻九十七上「外戚伝 李夫人伝」より意訳
この言葉を聞いた者たちは、誰一人として口を挟めなかった。そこには、単なる恋情ではなく、生き残りを賭けた後宮の現実を生き抜いてきた女性の、冷静で鋭い洞察力があったのだ。
やがて、李夫人は誰にも顔を見せぬまま、静かに世を去った。享年は不詳だが、まだ若かったとされる。
彼女の死は、漢武帝にとって深い衝撃をもたらした。
李夫人の策略は「死してなお愛される」ことであった。
武帝の執着と李一族の悲劇
李夫人の死は、漢武帝にとって「過去の出来事」にはならなかった。
彼女が顔を見せずに世を去ったことで、記憶に焼きつき、悔恨と追慕の念をさらに深めることとなる。
漢武帝は李夫人の姿を絵に描かせ、甘泉宮に飾らせた。
また、夜な夜な彼女の霊に会うため、方士を呼び寄せて儀式を行い、影絵芝居(皮影戯)でその舞姿を再現させたとも伝わる。

画像 : 鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「返魂香」
彼女の面影にとらわれた武帝は、自ら詩や賦を作って悲しみを綴り、その中で「神煢煢(けいけい)として遥かに思う」と詠んだ。
こうした異常とも言える執着の裏には、「最後に顔を見られなかった」という断ち切れない想いがあった。
李夫人はその死によって、漢武帝の心に永遠に生き続ける存在となったのである。
しかし、李夫人が命をかけて守ろうとした家族には、残酷な運命が待ち受けていた。
武帝は当初、彼女の遺志を汲んで、息子の劉髆(りゅうはく)を昌邑王に封じ、彼女の兄弟たちも厚遇していた。
だが、李夫人の読みは半ば正しく、半ば誤っていた。
彼女の死からわずか数年後、弟の李季が後宮の女性と私通した罪で誅され、兄の李延年も巻き添えで処刑された。
長兄の李広利は、一度は将軍として活躍しながらも、のちに李夫人の子・劉髆を皇太子に立てようとする陰謀に関与し、追討を恐れて匈奴に逃亡した末に殺されてしまった。
劉髆も早世し、その子・劉賀は短期間だけ皇帝となるが、すぐに廃されて「海昏侯」となる。
こうして李一族の栄華は、あまりにも儚く、あっけなく終焉を迎えてしまったのだ。
李夫人は、皇帝の寵愛を「永遠化」しようとした。そしてその目論見は見事に成功した。
だが、その先に待っていたのは、容赦ない宮廷の現実であった。
李夫人の名は、歴代の史書に刻まれ、後世の詩や物語の中でも語り継がれることとなる。
彼女は、ただ愛されたのではない。生き延びるために、愛されることを選んだのだ。
参考 : 『漢書』巻九十七上「外戚伝 李夫人伝」『史記』巻四十九「外戚世家第十九」他
文 / 草の実堂編集部
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