繁栄都市・揚州と、富豪たちの贅沢な暮らし

画像 : 揚州の繁栄を描いた清代の絵画 袁耀『邗江勝覧図』(1747年)Public domain
明清時代の中国で、最も華やかさを誇った都市のひとつが、揚州(ようしゅう)である。
長江と大運河が交差する交通の要衝に位置し、南北を結ぶ物流の中心として発展した揚州には、両淮(りょうわい)と呼ばれる淮南・淮北の塩産地を独占支配した塩商たちが集まり、莫大な富を築き上げていた。

画像 : 江蘇省中の揚州市の位置 Tomchen1989 CC BY-SA 3.0
塩商たちの生活は、王侯貴族に匹敵するほど贅沢であった。
広大な邸宅や手入れの行き届いた庭園を構え、書院や文会の席を設けて文人と語らい、豪華な酒宴を開くことが彼らの日常だった。
園林には琼花(けいか、中国特有の白い花)や芍薬(しゃくやく)が咲き誇り、夜になれば二十四橋に月がかかる景色を眺めながら、客人をもてなす舟遊びが繰り広げられた。
こうした華やかな暮らしぶりは、単なる贅沢にとどまらず、街の文化を鮮やかに彩った。
多くの詩人や学者たちが揚州を訪れ、数々の名詩にこの街を詠んだ。
やがて「自古揚州出美女(昔から揚州は美女を生む街)」という言葉まで生まれ、繁栄の象徴として人々に語り継がれるようになったのである。
しかし、そのきらびやかな光景の裏では、もう一つの世界が動いていた。
そこで商品にされたのは「人」、すなわち貧しい家から買われた「揚州瘦馬(ようしゅうそうば)」と呼ばれる少女たちだった。
「揚州瘦馬」とは

画像 : 明代女性図 public domain
「揚州瘦馬(ようしゅうそうば)」とは、文字通りに読めば「揚州の痩せた馬」を意味するが、実際には少女たちを指す俗称である。
明清時代の揚州では、貧しい家庭の娘を牙行(がこう 仲介業者)が安く買い取り、数年かけて養成したのち、富豪に高値で売り渡す習慣があった。
清代中期の文人・章大来は、詩文集『后甲集』で以下のように記している。
扬州人多买贫家小女子,教以笔札歌舞长即卖为人婢妾,多至千金,名曰“瘦马”
意訳 :
揚州の人々は貧しい家の少女を買い取り、書や舞や歌を仕込んで成長すると婢妾として売り、多くは千金に達した。これを『瘦馬』と名づける。『后甲集』より
それでは、なぜ「瘦馬」という言葉が用いられたのだろうか。
それは、商人が痩せた馬を安く買い、飼育して肥えさせた後に、高値で売る商法になぞらえたものだった。少女たちは痩せ細った体を美の基準とされ、まるで商品や家畜のように扱われたのである。
牙行たちは、特に顔立ちの整った幼い娘を好んで選んだ。
貧しい家では、やむなく幼い娘を手放すしかなく、少女たちは七つ八つの年頃で親のもとを離れ、見知らぬ屋敷へと連れ去られていった。
やがて「瘦馬」は、揚州の街に欠かせない一つの「産業」となり、塩商や豪商たちの需要を満たすために組織的に育成された。
表向きには「教養ある佳人(才色を兼ね備えた女性)」を育てる文化的な営みとも称されたが、その実態は少女たちを徹底的に商品化する冷酷な取引だったのである。
美と教養を叩き込む、苛酷な養成

画像 : 揚州瘦馬 イメージ 草の実堂作成(AI)
「瘦馬」とされた少女たちは、ただ売られるために育てられたわけではない。
買い取った牙行たちは、彼女たちを「高値で売れる商品」に仕立て上げるため、徹底的に養成した。
最初に教え込まれるのは礼儀作法である。
来客に対してどのように頭を下げ、どう歩き、どんな声で返答するのか。姿勢、表情、声色、すべてが評価対象となり、わずかな仕草の乱れも許されなかった。
次に待ち受けるのは芸事の習得だ。
琴や琵琶、囲碁や書道、舞や詩作など、一流の才女に見えるように、日夜厳しい稽古が課された。
体型も、厳しく管理されていた。
華奢で病弱そうに見える姿が「美」とされ、食事は制限され、時には断食を強いられることもあった。
足は纏足(てんそく)によって小さく歪められ、痛みに耐えながら歩行訓練を続けた。

画像 : 纏足(てんそく)の靴。理想的な大きさは三寸(約9cm)とされ「三寸金蓮」と呼ばれた CC BY-SA 3.0
このような過程を経て、彼女たちは「美貌と才芸を兼ね備えた佳人」として商品化された。
見た目の華やかさの裏には、幼い頃から積み重ねられた苦しみが刻まれていたのである。
やがて少女たちは成長するとともに、宴席や見世の場で披露され、富豪や文人に「選ばれる日」を待たされる。
その瞬間は人生の転機であると同時に、さらなる束縛と苦難の入口でもあった。
少女たちを待ち受けた過酷な運命

画像 : イメージ 杏園雅集図(明代・一四三七年頃) Public domain
厳しい養成を経て「瘦馬」となった少女たちには、いくつかの運命が待ち受けていた。
もっとも幸運とされたのは、豪商や役人の側室として迎え入れられることである。
だがそれも表面的な「出世」にすぎず、屋敷の中では正妻や他の妾からの嫉妬や監視にさらされ、少しの過ちで暴力や追放を受けることもあった。
豪奢な暮らしの中で、出自の低い彼女たちの立場は常に不安定で危ういものだった。
選に漏れた少女たちは、さらに厳しい結末を迎えた。
娼妓として妓楼へ送り込まれ、歓楽街で客を取らされたのである。
教養や芸を叩き込まれていたため「看板娘」としては重宝されたが、その代わりに心も体も急速にすり減っていった。
そして年を重ねて美を失えば、容赦なく捨てられ、路頭に迷う者も多かった。
さらに不幸な例では、過酷な訓練の途中で病に倒れたり、買い手がつかないまま見捨てられることもあったという。
富豪や文人たちにとって「瘦馬」は贅沢を飾る道具であり、詩や物語を彩る題材だった。
茶会や舟遊び、庭園での小さな宴席、どの場面においても、少女の所作ひとつひとつが主人の審美眼を映し出す鏡となり、権勢を示す手段にもなった。
だが少女たちにとっては、命を削り尊厳を奪う仕組みにほかならなかった。
「揚州瘦馬」とは、明清の繁栄の陰に潜む影であり、「揚州美女」という美名の裏に隠された涙の歴史なのである。
参考 : 『后甲集』章大来 『续金瓶梅』丁耀亢 他
文 / 草の実堂編集部
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