絶世の美女

画像 : 北斉(550年 – 577年)と北周・陳・後梁 wiki c 俊武
6世紀の中国北朝。隋が約300年ぶりに中華を再統一するおよそ40年ほど前、戦乱の中から興った短命の王朝・北斉に、一人の皇后がいた。
彼女の名は、李祖娥(り そが)。

画像 : 李祖娥(りそが)草の実堂作成(AI)
趙郡平棘県(現在の河北省趙県)に生まれ、父の李希宗は北斉の前身・東魏の地方官だった。
母は名門・博陵崔氏の出で、李祖娥は中原系の漢人の家系に連なる女性だった。
彼女は、ただの名家の娘ではなかった。
『北斉書』には「容德甚美」、つまり容姿と人徳のどちらにも優れていたと記されており、清代の文人・鵝湖逸士は「李祖娥は古今に類なき絶世の美女」と称え、西施や王昭君と並び称している。
だがその美貌と家柄に恵まれた皇后が、やがて宮廷の権力闘争に巻き込まれ、辱めと暴力の果てに、歴史に類を見ない凄惨な結末を迎えることになるとは、誰が予想しただろうか。
今回は、正史に記された唯一の「ある刑罰」を受けた皇后・李祖娥の数奇な運命をひもといていく。
運命を変えた結婚
李祖娥の運命を大きく変えたのは、東魏の実力者・高歓(こうかん)の決断だった。

画像 : 北斉の基礎を築いた高歓(こうかん、496年-547年)public domain
彼女の美しさに目をつけた高歓は、息子の高洋に彼女を娶らせた。
しかし高洋は「肌は黒ずみ、頬は垂れ下がり、体は鱗のような皮膚病に覆われていた」とされ、醜悪な見た目で知られていた。『※北史・高洋本紀』
その結婚は、李祖娥にとっても望んだものではなかったが、高歓の命令に逆らえる者などいなかった。
やがて550年、高洋は東魏を簒奪し、自ら北斉の皇帝・文宣帝を名乗る。

画像 : 高洋 ※北斉の初代皇帝・文宣帝(在位:550年-559年)
しかし、彼にとって悩ましい問題がひとつあった。
それは「誰を皇后に立てるか」である。
この時、高洋の側近たちの意見は割れていた。
彼の一族である高氏は、鮮卑(せんぴ)と呼ばれる北方民族の出自を持っていた。そのため、宮廷内では漢人に対する一定の差別意識が根強く残っていたのだ。
宗室の側近である高隆之や高徳正は、「漢人の女性は天下の母にふさわしくない」として、北方貴族出身の段昭儀を皇后に立てるべきだと進言した。
一方、尚書令の楊愔(よういん)は「漢魏の旧制に従うべき」として、正妻の李祖娥を皇后とするべきだと強く主張した。
最終的に高洋は、楊愔の意見を採用し、李祖娥を皇后に立てた。
北方の武骨な政権において、漢人の女性が正室として皇后に立てられるのは異例のことであった。
とはいえ、即位直後の宮廷では、彼女の立場は比較的安定していた。
高洋は後宮の妃たちをしばしば殴り、時に命を奪うことさえあったが、李祖娥には礼を尽くして大事に接していたという。
彼女は高洋とのあいだに二人の子、高殷(こう いん)と高紹徳(こう しょうとく)をもうけ、皇后として、母としての地位を築いていった。
だが、この安定は長くは続かなかった。
宮廷を揺るがす陰謀と裏切り

画像 : 皇帝即位 草の実堂作成(AI)
559年、文宣帝こと高洋が、突然崩御してしまった。享年はわずか34。
後継として、長男の高殷(こう いん)が第2代皇帝として即位した。
年若き新帝を補佐するため、先帝の遺詔により、楊愔を中心とする文臣派(漢人が多い)が政務を担うこととなった。
皇后だった李祖娥は、皇太后として新たな地位を得る。
だが、この新体制には早くも不穏な空気が漂い始めていた。
最大の問題は、高殷の叔父たち、常山王・高演(こう えん)と長広王・高湛(こう たん)の存在だった。
いずれも武名と人望を兼ね備えた強力な宗室であり、皇帝の座を狙う潜在的な脅威と見なされていた。
そこで補佐役の楊愔らは、彼らを地方へ追放して実権を揺るぎないものにしようと画策した。
この陰謀に、李祖娥も巻き込まれていくこととなる。
当時、太皇太后である娄昭君(ろうしょうくん ※高殷の祖母)のもとにいた宮人が、この陰謀の一部を李祖娥から聞き出し、娄昭君に密告してしまったのである。
この密告が引き金となり、ついに高演・高湛ら叔父たちが動いた。
彼らは楊愔らを拘束し、そのまま軍を率いて宮廷に突入した。
娄昭君もその場に現れ、李祖娥と若き皇帝・高殷は、ただ立ち尽くすしかなかった。

画像 : 立ち尽くす李祖娥と高殷 草の実堂作成(AI)
実はこのとき、宮殿の外には先帝・高洋が残した近衛兵2千人が待機していた。
しかし、まだ10代半ばの少年皇帝だった高殷には、とっさに軍を動かすだけの判断力も経験も備わっていなかった。
やがて祖母の娄昭君は激昂し、高殷に詰め寄った。
「どうして私と息子たちが、あの下賤な漢人の憎たらしい女に操られなければならぬのか!」
李祖娥はその罵声に震えながら、地にひれ伏して謝罪するしかなかった。
そして叔父の高演は、表面上は皇帝・高殷に頭を下げつつも、反乱の正当性を主張した。
高殷はついに屈し、「皇位は叔父殿に譲る!私は下がるので、漢人たちは好きに処置してほしい」と言い残し、政権を手放してしまった。
こうして、楊愔ら忠臣は次々と処刑されてしまったのである。
560年、高演は正式に皇帝に即位し、北斉の第3代皇帝・孝昭帝となった。
李祖娥は皇太后の称号を剥奪され、名目上「皇后」に戻されたうえで昭信宮へ移された。
形式的には呼称の変更にすぎなかったが、実際には宮廷から完全に排除され、政治的影響力を失うこととなった。
かつては「天下の母」とまで称された李祖娥だったが、その地位を追われ、北斉王朝の中で完全に孤立していったのだ。
義弟・高湛との悲劇的な関係
だが、そのわずか1年後の561年、高演は急逝し、弟の高湛(こうたん)が北斉の第4代皇帝・武成帝として即位した。
しかし、新たな皇帝の関心は、政務よりも私情に傾いていた。
彼が真っ先に目をつけたのが、兄・高洋の正室であり、かつての皇太后・李祖娥であった。
実は高湛は、兄の未亡人である李祖娥の美貌に、以前から惹かれていたのである。
そして夫・高洋の死後、孤立した李祖娥には、もはや支えてくれる後ろ盾は存在していなかった。

画像 : 李祖娥を見つめる高湛 草の実堂作成(AI)
そんなある日、高湛は彼女に対し、こう脅した。
「もし私の望みを拒めば、お前の息子を殺すぞ」
息子の命を人質に取られた李祖娥は、屈辱に耐えながらもこの暴君の欲望に従い、体を許すしかなかった。
そして間もなく、彼女の胎内には高湛の子が宿ることとなる。
それからしばらくして、彼女の次男・高紹徳が昭信宮を訪ねてきた。
しかし李祖娥は、懐妊の事実を隠すため、息子に会うことを拒んだ。
門前で足止めを食らった高紹徳は怒りを爆発させ、「母上が懐妊されていて、私を避けていることくらい、わからぬとでも思っているのか!」と叫んだ。
この言葉は、李祖娥の胸に深く突き刺さった。
脅迫されて身を委ね、望まぬ妊娠を背負い、そのうえ息子からも激しくなじられたのである。
やがて女児を出産するが、李祖娥はその子を抱くこともなく、そのまま放置した。
『北齊書』には「生女不舉」とあり、つまり生まれた娘は育てられることなく命を落としたのである。
恥と絶望が、母としての本能さえ押し殺してしまったのだった。
だが、彼女の本当の地獄はここからであった。
歴史に刻まれた「史上最大級の屈辱」
この出来事は当然、高湛の逆鱗に触れた。
自分の娘を殺されたと知るや、怒り狂った高湛はまず高紹徳を呼び出し、李祖娥の目の前で彼に詰め寄った。
「お前の母が私の娘を殺したのだから、私はお前を殺す!」
その場で高湛は剣を振り下ろし、高紹徳を斬り殺してしまった。
愛する息子を目の前で失った李祖娥は、声を張り上げて慟哭した。しかし、高湛の怒りは収まらなかった。

画像 : 李祖娥と激怒した高湛 草の実堂作成(AI)
彼は李祖娥の衣を剥ぎ取り、なんと裸のまま鞭で打ちすえた。
『北齊書』には「裸后亂撾撻之、號天不已(皇后の衣を剥ぎ取って乱打すると、彼女は天を仰いで泣き叫んだ)」とある。
これは正史に残る唯一の「裸刑」の記録である。
この辱めは尊厳を剥奪し、母としての愛情を踏みにじり、皇后としての地位を地に落とす、精神的にも肉体的にも極限の暴虐であった。
さらに『北齊書』には、「盛以絹囊,流血淋漉,投諸渠水」と続く。
李祖娥は傷だらけのまま絹袋に詰められ、水路に投げ捨てられてしまったのである。
正妻として、かつて皇太后にも上り詰めた女性が、ここまで徹底的に貶められた前例はない。
他にも暴力を受けた皇后の記録はあるが、裸にされ、打ちすえられ、袋詰めにされ、水中へと捨てられたのは、李祖娥ただ一人である。
しかし、彼女は奇跡的に命をとりとめた。
その後、牛車に乗せられ、都を離れて妙勝寺へ送られた。
『北齊書』には「犢車載送妙勝尼寺」とある。犢車(とくしゃ)とは本来、庶民や罪人の移送に使われる粗末な牛車のことであり、皇后のような高貴な身分の女性が乗るものではない。
つまりこれは、李祖娥の地位と尊厳をさらに踏みにじる、最大級の侮辱であった。
妙勝寺で李祖娥は剃髪し、尼としての余生を送ることとなる。
やがて十数年の時が流れ、577年に北斉は北周によって滅ぼされ、李祖娥は長安へと連行されて囚われの身となった。
その後、隋が建国された581年になって、ようやく故郷・趙郡へ戻ることが許された。
以後、彼女の名は正史の記録から消える。
だがその数奇な運命は、隋・唐の時代に至っても語り継がれ、皇后という最高位の女性が受けた屈辱として、人々の記憶に深く刻まれていった。
彼女がどんな最期を迎えたのかはわかっていない。
ただ一つ確かなのは、李祖娥こそが、中国正史に記された唯一の「裸刑を受けた皇后」であったという事実である。
参考 : 『北齊書』巻九 補列傳第一 後宮列伝、巻四 文宣四王伝、『資治通鑑』他
文 / 草の実堂編集部
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