南北朝

たった5ヶ月で滅んだ「漢」宇宙大将軍・侯景とは何者だったのか?死後はバラバラに

古今東西、叛逆者が大言壮語することは珍しくありません。

それぞれに野望を込めた称号を作っては名乗り、歴史の奔流に呑み込まれていきました。

その中でも、ひときわ異彩を放つ人物がいます。

自らを「宇宙大将軍」と称し、わずか5ヶ月とはいえ皇帝の座にまで登りつめた反逆者、侯景(こうけい)です。

中国南北朝末期の大混乱を背景に、彼は主君を渡り歩きながら権力を手にし、最後には人々から激しい怨みを買って無惨な最期を遂げました。

果たして侯景は、どのようにして乱世を駆け抜けたのでしょうか。

今回は、その波乱に満ちた生涯をたどっていきます。

主君を度々変えた梟雄

画像:侯景 public Domain

侯景は、景明4年(503年)に、侯標(こうひょう)の子として誕生しました。

字は万景、出身地については朔方郡(内モンゴル自治区オルドス市など)や雁門郡(山西省北部)など諸説あります。

出自についても胡化(北方に土着、異民族と同化)した漢族とも、あるいは漢族化した鮮卑族・羯族とも言われるなど、詳しいことは分かっていません。

祖父が鮮卑族の姓である乙羽周を称しており、混血した可能性は十分に考えられるでしょう。

侯景ははじめ、北朝の北魏王朝に仕え、正光4年(523年)から勃発した六鎮の乱で、爾朱栄(じしゅえい)の部下として頭角を現しました。

やがて北魏が東西(東魏と西魏)に分裂すると東魏に属し、高歓(こうかん)の旗下で河南大行台に任じられ、河南方面の軍事作戦を指揮します。

画像 : 西魏・東魏・梁 Shizhao CC BY-SA 3.0

しかし武定5年(547年)に高歓が死去すると、その遺児である高澄(こうちょう)や、その部下である韓軌(かん き)らに命を狙われたため、やむなく東魏に叛乱を起こし、軍勢を率いて南朝の梁に帰順しました。

この時、東魏に取り残された侯景の妻と、長男の侯和(こうわ)らは捕らわれ、処刑されてしまいます。
また、一人娘は奴婢として売り飛ばされてしまったそうです。

妻子を捨てて梁に帰伏した侯景は、東魏との最前線に立たされ、慕容紹宗(ぼようしょうそう)との戦いに敗れるなど、苦戦を強いられていました。

そんな中、梁と東魏が和睦する流れとなり、叛乱を起こした侯景の身柄が東魏へ引き渡されることが決まります。

それだけは何としても避けたいと策を講じるも失敗し、軍師であった王偉(おうい)の「兵は拙速を貴(たっと)ぶ ≒ 準備が万全でなくても、タイミングを逃さず挙兵すべき」という進言により、梁に叛旗を翻したのでした。

「侯景の乱」が勃発

画像:梁の武帝・蕭衍(しょうえん) Public Domain

時は太清2年(548年)、侯景は、梁王室に連なる蕭正徳(しょう せいとく)を担ぎ上げて8千の兵を掻き集め、怒涛の勢いで梁の首都・建康(江蘇省南京市)に迫ります。

建康に迫った侯景軍に対し、守備側の城内には2万の軍勢と8万の住民が立て籠もっていました。

彼らはあえて出撃を避け籠城戦を選びましたが、必死に防戦したものの食糧が底を尽きてしまい、鼠や雀の肉だけでなく、死者の遺体にまで手を伸ばさざるを得ない飢餓状態に陥ってしまいました。

年が明けて太清3年(549年)、ようやく梁に援軍が到着したため、侯景は一時的に和睦します。

しかし援軍が撤収した2月末、侯景は再び宣戦を布告。疲弊し切っていた建康にはもはや十分な戦力がなく、3月10日に陥落したのでした。

この戦闘によって数十万人の難民が生じ、飢饉によって多くの者が餓死したと言います。

梁の武帝・蕭衍(しょうえん)は幽閉され、間もなく絶望の中で憤死に追い込まれました。

強大であった梁王朝が一人の叛将に敗れ去った原因として、国内の王族たちが互いに牽制し合った結果、誰も積極的に武帝を助けようとしなかったことが考えられています。

なお、侯景に担がれて一時的に皇帝に即位した蕭正徳は、建康の陥落後、用済みとばかり帝位から引きずり下ろされました。

そして幽閉された武帝と対面し、泣きながら侯景に与したことを後悔するも、今さら遅いと突き放されたそうです。

その後、従弟の蕭範(しょうはん)と連携して侯景の討伐を謀りますが、発覚して殺されてしまったのでした。

我こそは宇宙大将軍なり!

画像 : 侯景と、武帝の三男・蕭綱 イメージ 草の実堂作成(AI)

武帝の没後、侯景は武帝の三男である蕭綱(しょうこう)を擁立しました。

これが、梁王朝の第2代皇帝・簡文帝(かんぶんてい)です。

時は太清3年(549年)5月27日、侯景は自ら「相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事」に就任しました。

それぞれの称号を見てみましょう。

・相国(しょうこく)

→執政における最高責任者で、国を相(たす)ける意味。

かつては相邦(しょうほう)と呼ばれていましたが、やがて漢の高祖・劉邦に憚って同じ意味の相国となりました。

・宇宙大将軍(うちゅうだいしょうぐん)

→『淮南子』によると、宇宙とは「往古来今謂之宙、四方上下謂之宇(過去と未来を宙と言い、天地四方を宇と言う)」と定義されています。

つまり、宇宙大将軍とは「過去と未来、そして現代における全世界の守護者」と言えるでしょう。

・都督六合諸軍事(ととくりくごうしょぐんじ)

→六合とは宇宙の宇に相当する、天地四方を指します。

この世界におけるあらゆる軍事行為・武力行使のすべて(都)を取り締まる(督)意味があるようです。

相国(政治の頂点)と都督六合諸軍事(軍事の頂点)だけでは満足できず、侯景はさらに宇宙大将軍の称号を掲げ、過去・現在・未来のすべてをも支配しうる存在であることを誇示しようとしたのです。

簡文帝は、好き放題に振る舞う侯景に嫌気が差し、粛清を謀りますが、その動きを察知した侯景により、大宝2年(551年)8月に退位させられてしまいました。

その後、簡文帝は同年10月に、身体の上に大量の土嚢を積まれて圧死させられています。

かくして簡文帝を排除した侯景は、続いて初代武帝の曾孫にあたる蕭棟(しょうとう)を擁立し、第3代皇帝として即位させます。(正史では皇帝として認められず、帝号もありません)

しかし蕭棟の擁立は、あくまで侯景が自らの政権を保つための形ばかりの措置に過ぎませんでした。
侯景は間を置かずに蕭棟へ禅譲を強要し、そのまま皇帝の座を奪い取ったのです。

こうして蕭棟は、即位からわずか3ヶ月足らずで帝位を追われることになりました。

皇帝に即位するも、わずか5カ月で崩壊

画像:侯景の乱を鎮圧した梁の元帝(蕭繹 しょうえき) Public Domain

禅譲とは、徳のある者に対して国(帝位)を譲ることを指し、血縁にない後継者(つまり権力簒奪者)の正統性を国内外に示すものでした。

しかし、その実態は往々にして武力を背景にした脅迫であり、侯景のケースも批判を免れなかったことでしょう。

ともあれ、誰が何と言おうが皇帝に即位した侯景は、国号を「」とし、元号を太始(たいし。大いなる国の始まり、の意)と定めました。

正史では正統な皇帝と認められていないため、帝号はありません。

ここに権力の絶頂を極めた侯景ですが、驕れる者は久しからず。

太始元年(551年)10月の即位からわずか5ヶ月の太始2年(552年)3月、のちに江陵(湖北省)で即位して梁の第4代皇帝(元帝)となる湘東王・蕭繹(しょうえき)が、侯景を追討するため軍勢を差し向けました。

湘東王・蕭繹の指揮下で王僧弁(おうそうべん)が率いる討伐軍と、陳霸先(ちんはせん)の義勇軍が建康に迫ると、侯景はもはや持ちこたえられず、舟で逃げ出しました。

その途上、2人の息子を長江に突き落として溺死させたと言いますから、よほどなりふり構っていられなかったのでしょう。

しかし悪運もここで尽きたようで、義兄弟であった羊鵾(ようこん)に刺殺され、その首級は蕭繹に献上されたのでした。

侯景の遺体はバラバラにされ、首級は江陵の城門で梟首(さらし首)に、両腕と両足は北朝の北斉(550年に樹立)王朝に送られます。

そして胴体は建康で晒しものとなり、庶民たちに切り刻まれ、その肉は膾(なます)として食い尽くされました。

よほど庶民たちの怨みを買っていたのか、あるいはよほど飢えていたのか、両方だったのかも知れません。

終わりに

今回は中国南北朝末期に乱を起こした侯景について、その生涯を駆け足でたどってきました。

次々と主君を変えながら、とうとう皇帝にまで成り上がってしまう姿は、まさに乱世の梟雄と言えるでしょう。

そんな侯景の野心を最も体現していた称号こそ「宇宙大将軍」。

過去・現在・未来すべての支配者というニュアンスに、壮大なスケールを感じます。

家族を見捨て、多くの人々から怨みを買った末に勝ち取ったのは、たった5ヶ月の帝位。
それでも彼は、野望を遂げずにはいられなかったのでしょう。
あるいは野望しからずんば死あるのみと覚悟していたのかも知れません。

決して賞賛される人物ではありませんが、その巨大な野望と悲惨な最期は、今なお多くの示唆を与えてくれる存在です。

※参考 :
・『梁書』「侯景伝」
・川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫、2003年5月
・塚本善隆 編『世界の歴史 4 唐とインド』中公文庫、1974年12月
・吉川忠夫『侯景の乱始末記』志学社、2019年12月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部

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