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実はフィクションだった「桃園結義」
劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを結んだ 桃園結義(桃園の誓い)は、三国志の名場面を語る際に外せない名シーンである。
「生まれた時は違えども死ぬ時は同じ日同じ時を願う」という名言は、三国志に興味がない人でも一度は聞いた事があり、三国志に限らず、アニメ、ゲーム、ドラマといった作品でもこのセリフが多々引用されるため目にする機会が多い。
三国志を題材にした作品でも義兄弟として活躍する劉備達だが、史実には劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを交わしたという記述はなく、桃園結義は羅貫中が書いたと言われる小説『三国志演義』に描かれたフィクションである。
三国志に興味を持った人の大半は歴史本(正史)ではなく演義をベースにした創作作品から入るため、知識が増えて三国志に詳しくなった頃に、桃園結義がフィクションである事を知って驚く事がある意味、通過儀礼となっている。
では、何故史実以上に有名となるフィクションが生まれたのだろうか。
今回は、史実に書かれた劉備達の関係から桃園結義(桃園の誓い)の真実を調べてみた。
演義に描かれた三人の出会い
最初の段階で劉備達は義兄弟ではないと書いたが、正史を読むと劉備は関羽、張飛と単なる配下武将ではなく、本当の兄弟のように接していたと書かれている。
兄弟のように仲がいいというのは現代でもよく使われる表現だが、史実の記述に注目した羅貫中が義兄弟という設定を付け加えて『三国志演義』を執筆した事が全ての始まりだった。
ゲームでもお馴染みの青龍偃月刀や蛇矛は三国時代には存在しなかったというのは有名な話であり、武器に限らず演義と史実を比較すると多数の相違点が目に付くが、三人の出会いに関しても史実と演義では大きく異なる。
演義では義勇軍募集の札を見て、乱世を憂いつつも行動を起こすも基盤を持たず嘆く劉備を見て、張飛が声を掛けるところから物語が始まる。
意気投合した劉備と張飛が盛り上がっているところ、たまたま近くに居合わせた関羽も加わり、漢室再興のため義兄弟の契りを結ぶという、偶然でありながら運命を感じさせる出会いとなっている。
これも有名なシーンだが、ここまでの流れから見ても分かる通り、これもフィクションである。
では、史実の劉備達はどのようにして出会ったのだろうか。
史実に描かれた三人の出会い
史実に於ける劉備も貧しい家庭で育ったところは演義と一致しているが(参考URL)、史実に描かれている劉備はコミュニケーション能力に長けた人物で、口数は多くないもののへりくだった態度で接したため人が寄って来たと書かれている。
劉備は様々な人物と積極的に交流を重ね、地元の豪傑や若者達と人脈を築いており、関羽と張飛も劉備の評判を聞いて彼に近付いた人間だった。
正史にはこれ以上劉備達の出会いに関する記述はないが、関羽と張飛は当初から劉備の身辺警護をしていたとの事で、当時から劉備の信頼が高かった事が伺える。
劉備の旗揚げ当初から付き従っていた人物で名前が現代まで残っているのは関羽、張飛を除けば簡雍と田豫(後に劉備から離れて曹操に仕える)しかおらず、現代に名前が伝わっていない名無しの側近も含め、関羽と張飛は当時から最も腕の立つ家臣だった事は容易に想像出来る。
なので、最も頼れるボディガードとして関羽と張飛が破格の扱いを受けるのは妥当だった。
何故兄弟と呼ばれるようになったのか
また、劉備達の親しい関係を示すエピソードとして、三人は同じベッドで寝ていたという記述がある。
大袈裟な表現が好きな昔の人が書いたにしても、人間とは思えない描写をされている男三人が同じベッドで寝ている姿は想像出来ないが、非常に窮屈そうである。(当時の記述によると三国時代のベッドは大きなソファのような形であり、幅も広く大男数人が一緒に眠れるように作られていたとの事である)
それはさておき、当時の中国では親しい者と床をともにするのは、互いの関係がより親密である事を示していた。
そもそも劉備達のためにキングサイズのベッドを作ってくれる人が、当時の中国にいたのかという余計な事ばかり気になってしまうが、兄弟のように仲が良かった事に加え、同じベッドで眠るほどの関係だった劉備達に注目したのが羅貫中である。
劉備達の記述が少ないからこそ好きに書ける「強み」
正史の三国志は魏及び晋の歴史を主体として(もっとはっきりいうと魏と晋を正当化するために)書かれた書物であり、劉備たち蜀の人間に対する記述は世間の三国志ファンが思っている以上に乏しい。
正史を読んだら人気武将の記述が少ないというのは一人のファンとしては残念な気持ちになるが、漫画家や小説家など作品を創作する立場となれば話は変わって来る。
歴史をベースにした作品を執筆する場合、記述が少なく資料に乏しいという事はそれだけフィクションを挟む余地がある訳で、作者の想像力次第では兄弟のように仲が良かった三人を義兄弟にする事も出来る。
史実とフィクションを上手く織り混ぜながら数々の名場面が描かれている『三国志演義』だが、羅貫中最大の功績は世界で最も有名な義兄弟を生み出した事にあると言っても過言ではない。
羅貫中(らかんちゅう)とは何者なのか
兄弟のように仲の良かった三人の関係を史実よりも面白く、そして読者を興奮させる名場面にまで昇華させた羅貫中の文才と想像力に感謝したいところだが、その羅貫中自体謎が多い人物である。
また、現在では羅貫中が著者であるとされているが、実は羅貫中が『三国志演義』の著者である確固たる証拠がなく、当時から現在まで600年以上もの間、何となく語り継がれて来た「通説」に過ぎない。
しかも、羅貫中の生涯がほとんど謎であるため羅貫中に対しても様々な説が生まれ、真偽は不明だが作中の文章の癖の違いから複数のメンバーによって構成された「羅貫中」という名の執筆グループだったという説も存在する。
著者の経歴を見ても何処までが真実か分からない、だからこそ足りない部分を想像で補う歴史の面白さを感じさせてくれる。
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