幕末明治

岡田以蔵 ~人斬り以蔵と呼ばれた剣豪【幕末の四大人斬り】

はじめに

幕末の四大人斬りの一人で「人斬り以蔵」と恐れられた岡田以蔵

彼は幕末の四大人斬りの一人として有名で、後世の多くの作品にも登場しています。

彼はどうしてたくさんの人を斬ったのでしょうか?坂本龍馬との関わりは?剣の腕前はどうだったのか?

岡田以蔵について調べてみました。

生い立ち

岡田以蔵は、天保9年(1838年)1月20日に土佐国香美郡岩村(現在の高知県南国市)の郷士・岡田義平の長男として生まれます。

以蔵の父は、郷士の身分でした。当時の土佐藩では武士の身分は上士と下士に分かれ、その下士の上部に位置するのが郷土です。

上士でないと出世は期待出来ない上に、郷土の身分はお金で買うことも出来たのです。坂本龍馬の生家も、以蔵の父もお金で郷土の身分を買ったとされます。

岡田以蔵

※坂本龍馬

以蔵が10歳の時に、父が足軽として現在の高知市に住むことになり、近くには坂本龍馬武市半平太がいました。

以蔵は武市半平太に師事し、剣術は小野派一刀流を学び卓越した剣筋を見せて、太刀筋の早さは(はやぶさ)と喩えられるほどでした。

安政3年(1856年)には武市半平太の随行をして江戸に登り、鏡心明智流の名門・桃井道場に入門して剣術の腕をさらに磨き中伝を得ます。

翌年には土佐に戻り、武市の指示で中国・九州地方で仲間と共に武術修業を行い、武市が作った土佐勤王党に加盟します。

文久2年(1862年)6月、以蔵は参勤交代の衛士に抜擢されて、武市と共に参勤交代の列に加わり京に行きます。

人斬り以蔵

武市半平太は、約200人以上の同志らと土佐勤王党を立ち上げます。

岡田以蔵

※吉田東洋の写真

しかし、目の上のたんこぶのように土佐藩を牛耳る吉田東洋から反目されて、ついには吉田東洋の暗殺を実行。その後、反吉田東洋派の藩の重臣たちを抱き込み、武市は低い身分でありながら土佐藩の方針を左右するまでの地位を築いたのです。

文久2年8月2日、以蔵は久松喜代馬、森田金三郎、岡本八之助らと共に、吉田東洋の暗殺事件を調べる土佐藩下目付の井上佐市郎を暗殺し、以後、薩長他藩の同志たちと尊王攘夷派の弾圧に関与した者に「天誅」と称して集団制裁に加担します。

本間精一郎、宇郷重国、森孫六、大川原重蔵、渡辺金三、上田助之丞、金閣寺侍従、池内大学、文吉らの暗殺にも加担したとされます。

高い身分ではなく生活も困窮している以蔵の剣術の才を見いだして、江戸で剣の腕を磨かせたのは武市半平太でした。彼は以蔵からすると大恩人だったのでしょう。

そんな武市の意に沿わぬ者を斬ったのが、以蔵だったのです。

坂本龍馬との関係

武市半平太と坂本龍馬は、遠い親戚だった、だから武市を通じて以蔵と龍馬は幼い時からの知り合いだったという説があります。
以蔵が、江戸の桃井道場で剣術修業をしている時に龍馬は江戸の千葉道場で剣術修業をしている、この時にも親交を深めたのではないかと思われます。

武市の「勤王のためには暗殺もやむなし」という過激な考えに異を唱える龍馬は、武市の暗殺の道具のように働く以蔵に自分の師である勝海舟の護衛の職を紹介します。
実は、護衛の職につく以前に以蔵は勝の門下生でもありました。これも龍馬のすすめであったとされています。

勝は、開国論者だったので攘夷派の過激志士から常に命を狙われていました。以蔵は攘夷派として活動していましたがこの時は人を斬る仕事から人を護る仕事になりました。攘夷派と敵対する側になったのです。

勝が京の夜道を歩いていると3人の刺客に襲われたことがありました。以蔵は刺客の1人を切り倒して残る2人を一喝すると刺客は逃げていきました。勝は以蔵の剣の腕に感心しつつも以蔵に「やたらめったに人を殺してはならない」と言うと以蔵は「もし自分がいなかったら今頃は先生が死んでいたよ」と言い、これには何も言い返せなかったと後に勝は語っています。

以蔵が持っていた刀「肥前忠広」は竜馬から貰ったものだという説もあります。

土佐勤王党の衰退

武市半平太は、土佐勤王党で尊王攘夷活動を行い土佐藩での地位を築いていました。当時の京では長州藩が政局の中心、反幕府を鮮明に掲げる長州の志士たちは倒幕運動を推進、吉田東洋の暗殺という重大事件の首謀者の武市に処分が及ばなかったのは、長州藩とのつながりが深いためなのです。

しかし、文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」で長州藩は敗北して京を追いやられると、後ろ盾を失った土佐勤王党の立場は急速に弱くなっていきます。

山内容堂は、長州藩の没落を見て土佐勤王党の弾圧に動き、土佐藩の実権は吉田東洋門下の後藤象二郎らに移り、土佐勤王党の面々は投獄されて拷問を受け、京での様々な「天誅」事件(暗殺)を自白します。

投獄

勝海舟の護衛をしていた以蔵でしたが、いつしか龍馬にも見放されて無宿人となるほどに落ちぶれていました。土佐勤王党の現状を知った以蔵は京で潜伏しますが、商家へ強盗に入り捕まって土佐に送られ投獄されました。

武市たちは、以蔵がすべてを自白してしまうのではと疑念を抱き、以蔵の毒殺を計画しますが未遂に終わります。

岡田以蔵

※武市半平太が獄中において書いた自画像。

以蔵は、拷問に耐え切れず泣き叫びさっさと自分の罪を自白、それ以降以蔵の証言で次々と土佐勤王党の面々が捕らえられ、武市の罪も明らかになります。

そして慶応元年(1865年)5月11日、以蔵は打ち首、獄門となり28歳の生涯を終えました。

武市は、腹を三文字に割く壮絶な切腹を遂げています。

おわりに

坂本龍馬は、岡田以蔵の死を知り泣き叫んだそうです。

大恩人である武市半平太の頼みとは言え、多くの人の命をあやめてしまった岡田以蔵ですが彼だけが悪物でしょうか。

「君が為尽くす心は水の泡消えにし後は澄み渡るべき」

岡田以蔵の辞世の句です。

 

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