天下を取れると言われた逸材 龐統
三国志演義には「臥龍(伏龍)と鳳雛のどちらかを手に入れれば天下を取れる」という逸材の登場フラグがある。
水鏡先生こと司馬徽(しばき)は劉備に対して関羽、張飛、趙雲といった猛将を動かせる人材(軍師)がいないという劉備の弱点を指摘すると、臥龍、鳳雛(がりゅう、ほうすう)という逸材の存在を教える。
正史には登場しない演義の創作ではあるが、片方でも手に入れれば天下を取れるという高い評価と、劉備軍に逸材が加わる完璧なフラグにワクワクさせられる。
なお、司馬徽はその場で二人の名前を教えなかったが、臥龍とは言わずと知れた諸葛孔明であり、鳳雛とは龐統士元(ほうとうしげん)の事である。
そして、司馬徽の立てたフラグ通り、劉備は臥龍と鳳雛の両方を手に入れる事になる。
臥龍と鳳雛の両方を手に入れながら劉備が天下を取れなかったのは演義による創作なので言及はしないが、司馬徽の広げた大きな風呂敷の割には、正史でも演義でも龐統が活躍したイメージはなく、知名度も低い。
今回は、三国志の主要人物でありながら詳しく知られていない龐統の生涯と、正史に描かれた彼の実像に迫る。
人事担当 龐統士元
龐統は身なりの冴えない男であり、周囲から注目される事もなかった。
しかし、人物鑑定で有名な司馬徽に気に入られた(「龐統は南州の士人の冠冕(首座)になるだろう」と才能を認められた)ため世間に名前が知られるようになり、郡の功曹に任命される。
功曹は今の言葉でいう「人事担当」であり、人材の採用に関する権限を持った要職だが、龐統は地元の名士で人物鑑定の大家であった龐徳公の親類(甥)であり、家柄が良ければ優遇されていた当時の環境も龐統の就職に味方していた。
龐徳公同様、龐統も人物鑑定を得意としていたが、龐統が人を評する時は過大評価といえるほどその人物を持ち上げていた。
あからさまな過大評価ばかりする龐統に疑問を持った者が、何故その者の実力に見合った評価をしないのか尋ねたが、龐統は「今の乱れた世の中だからこそ、大袈裟なまでに人を誉めて名誉欲を満たしてやる必要がある。それで相手がやる気になってくれるならいいではないか」と答えている。
ちなみに、龐統自身も自分のやり方で得られる結果に大きな期待はしていなかったようで、上記の会話の最後は「採用した十人中五人が失敗しても残る五人は成功している」という言葉で締めている。
人事担当として「半分でもいいから戦力になって欲しい」という発言は弱気を通り越して無責任にも聞こえるが、とにかく人を必要とした乱世だからこそ、人をおだてて伸ばして半分でもいいから戦力になる人材を育てようというのが龐統のスタイルだった。
劉備に仕えるもすぐにクビ
演義では兵士達の船酔いに悩む曹操に船を鎖で繋ぐ「連環の計」を授けて周瑜の火計の手助けをするなど、赤壁の戦いに於ける陰の功労者として目立たないながらも重要な役割を果たしているが、これも演義の創作であり、正史では龐統が曹操と接触した記述は存在しない。
龐統と著名な人物の絡みが描かれるのは、周瑜がこの世を去ってからになる。
210年に周瑜が病死すると、龐統は周瑜の遺体を送り届けるため呉に向かい、そこで陸績(りくせき)、顧劭(こしょう)、全琮(ぜんそう)といった呉の名士と友好を結ぶようになる。
南郡太守の肩書きを持っていた周瑜の元で龐統が働いていたという記述は龐統伝にも周瑜伝にも書かれていないが、正史に描かれた広い交遊関係から龐統は荊州や呉で名の知れた存在だったと推測できるため、周瑜が南郡に進軍した際に登用された可能性は十分ある。
演義では周瑜の葬儀に現れた孔明から劉備への仕官を勧められるが、正史では周瑜の死後、荊州を手に入れた劉備に仕えたと書かれている。
劉備に仕える事になった龐統は耒陽県の県令を任せられるが、全く仕事をしなかったため免職となってしまう。
劉備の怒りは至極真っ当であり、龐統に対する処分も当然のものではあったが、思わぬところから龐統への「援軍」が現れる。
「劉備に仕えたばかりの龐統がクビになった」という話を聞いた呉の魯粛(ろしゅく)から、劉備に対して「龐統は大役を与えてこそ輝く人物なので重用すべき」と他勢力でありながら龐統を取り立てるよう勧める手紙が送られる。
一方、互いの親類の結婚で義理の親戚になっていた孔明も龐統の登用を勧めたため、劉備は龐統を呼び戻す事を決め、復職後、龐統は孔明と同じ軍師中郎将に任命された。
演義では一ヶ月間放置した仕事を半日でこなす辣腕ぶりを披露するが、これは正史には書かれていないフィクションである。
そして、ちょっとしたゴタゴタこそあったものの、劉備の元には臥龍と鳳雛の逸材コンビが揃う事になった。
龐統に期待されていたものとは?
晴れて劉備陣営に加わった龐統だが、軍師として貢献した実績はほぼ皆無である。
同族である劉璋を攻める事に難色を示していた劉備に「領地を奪った後に善政を敷いて、劉璋にも適当な役職を与えて厚遇している様を見せればいい」と話して益州攻めを決意させているが、これだけでは「軍師としての功績」とは言い難い。
宴の席で劉璋が無警戒なところを襲って殺す事を提案するなど、劉備の目標である益州奪取のための手っ取り早く、かつ効率的な策を提案しているが、リアリストな性格である(悪くいえば慎重を通り越して消極的すぎる)劉備からは却下されている。
役職に「軍師」という肩書きはあったものの、正史の記述を見ると龐統に飛び抜けた軍事的才能があるようには見えない。(そもそも龐統は弱小勢力だった劉璋としか戦っていないため軍事的才能を評価する事が出来ない)
本当の意味で龐統に期待されていたのは「本業」である人材発掘であり、劉備の元でもおだてて伸ばす独自のやり方で人材を育てていれば後の歴史が変わっていたかもしれない。
龐統が劉備に仕えていた期間は4年未満しかなく、人生同様短すぎた。
龐統、落鳳坡…ではなく雒城に死す
正史と演義の両方に共通する記述として、龐統は214年に36歳の若さでこの世を去っている。
演義では、龐統が落鳳坡(らくほうは)という死亡フラグ満載の場所を通り掛かったところ、劉備から与えられた白馬が仇となって標的とされて命を落としている。
注…ここから先はドラマによる演出が加えられているため、劉備のリアクションが演義の記述以上にオーバーなものになっています。
龐統の死を知った劉備は自分が白馬を与えた事を悔やみ「私が士元を殺したんだ!」と泣き叫び、机をひっくり返すなどの大暴れをする。
取り乱す劉備に対して冷たい言い方になってしまうが、龐統の献策した積極策に従っていれば益州進攻はもっとスムーズに進んでいたはずである。
そして、自分の馬を与えるなど次々と龐統の死亡フラグを立てて、その通り死に追いやっている劉備に対して読者も視聴者もストレスしか感じないため、主要人物である龐統の死を悲しむ劉備に対して共感も感情移入も全く出来ない迷場面である。(出発前に落馬した龐統に自分の馬を与える「死亡フラグ」は露骨すぎだが、214年に龐統が戦死したという史実に基づいて書かれているため、いずれにせよ龐統の死は避けられない運命だった)
一方、正史では劉璋軍の張任と劉循が守る雒城(らくじょう)を攻める際に流れ矢に当たって命を落としたと書かれているだけで、戦死した以外の事は不明である。
記述がシンプルだからこそフィクションを挟む余地があり、話が正史以上に膨らむのは演義でよく見られるパターンだが、中国には実際に落鳳坡という地名があり、そこには龐統の墓がある。
勿論、そこで龐統が戦死した訳ではないため龐統が埋葬されているはずがなく、結論から述べると後世になって作られた名所である。
フィクションの出来事とはいえ、創作で生まれた場所や墓が実際に作られるのは、龐統という人物の演義に於ける期待値が大きかった証明である。
ステータスと史実の実績を比べると過大評価に感じるが、ゲームでは鳳雛と呼ぶに相応しい優秀な軍師として、プレーヤーの天下統一をサポートしてくれる頼もしい存在となっている。
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