三國志

太平道と五斗米道 【三国志の二大宗教とは?】

三国時代の宗教

太平道と五斗米道

※孔子

三国志の舞台である後漢末期の中国は、儒教道教に対する意識が強い時代だった。

儒教とは人への思いやりを大事にし、年長者(先祖)を敬うという現代人の基本思想に似たような考え方だが、当時の中国は(作品の演出として大袈裟に描かれている面もあるが)名字が同じなら元を辿れば先祖が同じなので自分達は親戚という、現在以上に同族意識が強い時代だった。

その儒教とともに当時の中国で広まっていたのが道教である。

太平道と五斗米道

※老子

道教は、不老不死の仙人の存在を信じ、人間が仙人になれると信じる「神仙思想」と、理想を追い求めずに、「道(タオ)」に任せて生きるとする「老荘思想」を軸としており、現代にも伝わっている太極、陰陽、風水、易は道教が起源である。

これらを見ても分かるように不老不死を究極の目標とした「オカルト的な思想」を持った宗教であり、三国志ファンの間で有名な「太平道」と「五斗米道」は、どちらも道教の一派である。

今回は、三国志の時代に大きな影響を与えた二つの宗教に焦点を当てて、当時の社会に与えた影響を紹介する。

太平道の成立と黄巾の乱

太平道と五斗米道

※清代の書物に描かれた張角

正確な成立時期は不明だが、張角によって作られた太平道は、黄巾の乱を起こした団体として知られている。

太平道の基本的な理念として、いい事も悪い事も自身の行いから起こるという考えと、善行の積み重ねが長寿に繋がるという考えがある。

張角は病人に自分の罪を告白させ、符水(護符を沈めた水)を飲ませる事で病を癒すという、いかにも新興宗教らしいやり方で中国各地で信者の獲得に成功する。(張角と、彼の弟で太平道の幹部だった張宝と張梁に医学の知識があったかは不明だが、病が治癒するか否かは本人の信仰心次第という医学的根拠が皆無なものだった

現代人の視点で見ればただの怪しい宗教で見向きもされないが、太平道が成立した当時の中国は政治の腐敗に加え自然災害も頻発するという、漫画のような「世紀末」状態だったため、生活に困窮していた民は、これまた漫画に出て来るような「救世主」の登場を心待ちにしていた。

張角に最初から天下を狙う意思があったかは不明だが、30万人以上に膨れ上がった信者を見た張角は太平道の信者とともに反乱を起こし、自ら天下人になる事を決意する。

黄巾の乱として知られる反乱は宮中内部と中国全土で同時に蜂起する予定だったが、太平道内部からの密告によって計画が狂った上に、張角も乱の途中で病死するなど誤算続きとなる。

結局、黄巾の乱は8ヶ月という長期戦の末に鎮圧されるが、その後も残党による乱が頻発するなど、混乱が収まる気配はなかった。

曹操軍の主力となる青州兵

太平道と五斗米道

曹操

指導者を失った太平道のその後だが、反乱を起こしていた残党の一部が曹操軍に吸収される。

彼らが曹操軍の主力として活躍する「青州兵」となる訳だが、出自が太平道信者の残党である青州兵が宗教的な関係で繋がっていた事もあって、曹操は彼らが信仰していた道教の保護を約束する。

ある面では傭兵契約であるが、この「契約」のポイントとなった道教の保護が、後の魏と中国に大きな影響を与える事になる。

もう一つの新興宗教 五斗米道

太平道の成立とほぼ同時期に蜀で生まれたのが「五斗米道」である。

『列仙酒牌』による張陵

始祖である張陵(ちょうりょう)も、張角同様謎の多い人物であるため正式な成立年代などは不明だが、太平道と同じく罪を告白する事で病気を治すという、医学的根拠のない謳い文句で信者の獲得に成功する。

病気となった信者は天・地・水の三つの神に罪を告白し、悔い改め、罪を犯さない事を誓うという、現代人の視点で見るとこれで本当に病気が治ったら苦労しない話だが、現代ほど高い技術の医療を受けられなかった当時の人間にとって、本当に病気が治るなら怪しい宗教でも縋るしかなかった。

医学的根拠のない祈祷で本当に治った場合、信者はお礼として五斗(約10リットル)の米を寄進する事になっており、これが「五斗米道」の由来となっている。

なお、寄進された米だが、食事に困っている人や流民への施しに使われており、教団の幹部が私物化する事もなく、これ以上ないほど有効活用されていた。

祖父、父の後を継いで五斗米道のトップ(師君)となった張魯(ちょうろ)は、民への施しを中心とした善政を敷いたため人々から慕われており、漢中の独立勢力として30年近くも君臨していた。

信仰心の強さと健康の因果関係は証明出来ないが、不安しかない乱れた世の中であるからこそ宗教をよりどころとして統治するのは、一つの国家としてある意味理想の形だった。(そして何よりも、張魯が当代屈指の仁君だった事が大きかった

五斗米道のその後と今

天然の要害である漢中を本拠地として独自の勢力を築いていた張魯だが、215年に攻め込んで来た曹操に降伏する。

後漢末期まで生き残った長期政権のあまりにあっさりとした滅亡のようにも見えるが、張魯には曹操に降伏する大きなメリットがあった。

曹操が太平道の残党を吸収した時、信仰の大元である道教の保護を約束して彼らの支持を得ていた。

そして、五斗米道も道教の一派であるため、大人しく曹操に降伏すれば五斗米道は安泰であり、張魯も曹操から厚遇されるなど至れり尽くせりだった。

曹操が道教を信仰していたという記述はないが、早い段階から道教寄りの姿勢を取って兵士(民)の支持を得た事によって魏では道教が盛んになり、やがては事実上の国教として中国全土へと広まる。

五斗米道は現代も「正一教」という名前で存在しているが、張魯が降伏してから1800年経った今でも五斗米道の流れを組む宗派が続く下地を作ったのは、他ならぬ曹操であり、華やかすぎる経歴の中で見逃しがちだが、曹操は中国の宗教にも大きな影響を与えていた。

 

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