三国志終盤の天才
完結に向けて比例するように、三国志の終盤はマイナーな人物が多く登場し、有名な人物は一握りである。
当人には失礼ながら「マイナー武将のバーゲンセール」状態の終盤に於いて比較的高い知名度と豊富なエピソードに恵まれているのが、時代を先取りしすぎた天才こと諸葛恪である。
以前も諸葛恪の天才エピソードを記事に上げたが、後世に残したエピソードはまだまだ存在する。
今回は、諸葛恪の残した「らしさ」満載のエピソードを紹介する。
太った言い訳
父親である諸葛瑾が面長のロバ面だった事から「ロバ」と呼ばれていたのは有名だが、諸葛恪の容姿に関する記述はほとんどない。
ただ、体型に関する彼らしいエピソードは残されている。
孫権と諸葛恪が面会すると、孫権は諸葛恪の姿を見て「最近太ったように見えるが、何かいい事でもあったのか?」と聞いた。
諸葛恪は「富は家を潤し、徳は身を潤すと言います。私は徳を修めただけです」と答えた。
このエピソード以外に諸葛恪の容姿に言及した記述はなく、これだけで諸葛恪が太っていたと判断する事は出来ないが、即座に思い付いた言い訳としては秀逸である。
呉の重臣である諸葛瑾の息子として自身も重用されていた事もあり、諸葛恪が金や食事に苦労した事は一度もなかったため食べすぎによって太った事もあっただろうが、当時は一回の食事に困る家庭も多かった。
民の生活を守る立場の人間としいう自覚があるのであれば、プライベートの会話だったとしても上記の発言はすべきではなかった。
天才的な頭の回転と口の上手さの代わりに、性格は最悪だった諸葛恪の性格がよく分かる名言(迷言?)ではあるが、太った言い訳としては現代でもあまり適切ではないのでお勧めは出来ない。
先にお礼を言った意味は?
ある時、蜀から呉に使者がやって来た。
使者を歓待する宴が行われると、孫権は「諸葛恪は乗馬が趣味なので、蜀に戻ったら彼のために馬を送っていただきたい」とお願いした。
それを聞いた諸葛恪は、使者に向かっていきなりお礼の言葉を述べた。
まだ馬が来ていないのに、何故お礼を言うのか孫権は不思議に思うが、諸葛恪は「蜀は、陛下の遠く離れた厩です。陛下が呉に届けるようご命令されたのだから、馬は必ず届きます。どうして礼を言わずにおれましょうか」と答えた。
外交はなめられた方が負けであり、チャンスがあれば自国の自慢などでマウントを取ろうとするものではあるが、蜀の人間に対して「蜀は孫権の厩」という発言はいい気分がしないものである。
とはいえ、この手の発言は当時ではごく当たり前だった事も事実であり、そういう意味で天才的な頭の回転と口の上手さを持った諸葛恪は外交の場にいたら心強い存在だった。
馬にピアス
諸葛恪には他にも馬絡みのエピソードがある。
諸葛恪が孫権に馬を献上しようと面会した時、馬の耳には穴が開けられていた。
その場には范慎が同席しており「家畜に過ぎないとはいえ、馬も天から生を授かったものだ。その馬の耳に傷をつけられたのは、仁を損なう事になるのではないか」と諸葛恪をからかった。
一方の諸葛恪は「母親から惜しみない愛情を受ける娘も、耳飾りを着けるために耳に穴を開けます。耳に穴を開ける事の何が悪いのですか?」と返した。(耳飾り「ピアス」の起源はかなり古く、日本では縄文時代の遺跡からも出土しているため、三国時代に耳飾りを着けるために耳に穴を開ける風習があっても不思議ではない)
何故馬の耳に穴を開けたのか、そしてそんな馬を何故孫権に献上しようとしたかは不明だが、当時の中国の耳飾りに対する考え方の一部が見えるのは興味深い。
諸葛恪の軍事的才能
計15回にも及ぶ北伐を繰り広げた魏と蜀に対して、大規模な戦闘が少ない(ないとは言っていない)呉はどうしても蚊帳の外になってしまう。
後に呉の軍事面でもトップになる諸葛恪は実戦経験は多くなかったが、どのように軍を指揮していたのだろうか。
諸葛恪が叔父顔負けの手腕を見せたのが、山越の懐柔である。
山越とは呉の南部に存在した異民族で、孫策の代から呉の支配圏に入っては荒らし回るなど悩ませて来た。
234年、諸葛恪は「丹陽は山越が多い地域ですが、私が行けば、3年で彼らを懐柔して4万人の兵士に変えてみせます」と宣言する。
撫越将軍、丹陽太守に任じられた諸葛恪は、陳表、顧承らとともに山越討伐のため丹陽へと向かう。
丹陽に着いてから諸葛恪が行ったのは、徹底的な警備と兵糧攻めだった。
諸葛恪は丹陽に隣接していた呉、会稽、新都、鄱陽と連携を取って郡境の警備を徹底させ、山越が略奪を起こす前に先手を打つ。
食糧を略奪に頼って来た山越は餓死するか、降伏するかの二択となり、自身の命を優先するため降伏せざるを得なくなる。
これまでは武力には武力をと言わんばかりに力業で山越を平定していたが、諸葛恪は降伏してきた者は手厚く保護して山越からの支持を得た。
宣言通り、諸葛恪は山越を懐柔するとともに4万の兵を手に入れる事に成功する。
何処まで参考にしたか(何故これまで呉が武力一辺倒だったのか)は不明だが、叔父の諸葛孔明が南蛮平定に使った「心を攻める策」によって見事に任務を成功させた諸葛恪は威北将軍に任じられ、武将としても優秀である事を証明した。
天才の魅力
山越懐柔の功績によって出世街道を確かなものにした諸葛恪は、呉に於ける自身の位置を不動のものにしていた。
246年、陸遜の息子の陸抗と諸葛恪が任地替えをする事になり、諸葛恪は任地の柴桑を離れる。
陸抗は元の任地を離れる時に、壊れた箇所を整備するなど環境を整えてから諸葛恪に引き渡したが、諸葛恪は壊れた部分もそのままの状態でを陸抗に引き渡したため、陸抗が柴桑に赴任した時はボロボロだった。
天才的な頭脳を持つ代わりに、気遣いなど人として大事なところが著しく欠けていた諸葛恪の性格をよく表したエピソードである。
人間性に問題があるため、積極的に関わりたいタイプではないが、51歳という短い生涯で残した数々のエピソードを見ると、彼の天才ぶりが気になってしまう。
ファンは多くはないが、エピソードが多く退屈しない。
それが、諸葛恪の魅力である。
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