三國志

三国時代の最強馬 「赤兎馬」は本当に実在したのか?

赤兎馬

「三国志」の名馬である赤兎馬(せきとば)の名は、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

赤兎馬は、三国時代最強武将と呼ばれる呂布や、関羽の愛馬だったことでも知られています。

今回は、赤兎馬は本当に実在したのかについて掘り下げていきます。

『三国志演義』における赤兎馬

赤兎馬は、小説である『三国志演義』においては、董卓の所有物として登場します。

圧倒的な武力を持って西涼からやってきた董卓は、何進大将軍を排除した後も洛陽に留まりました。
董卓は新たに劉協(後の献帝)を皇帝に立てようとしました。多くの人々は彼の武力に恐れを抱き、何も言えませんでした。
しかし、丁原(ていげん)という文官が董卓の提案に反対しました。

董卓は丁原を排除しようとしましたが、強力な戦士である呂布が丁原を支持していたため、断念せざるを得ませんでした。呂布は丁原の義理の息子であり、この事実を知った董卓は呂布の力を自分のものにしようと考えたのです。

赤兎馬

画像 : 赤兎馬に乗って進撃する呂布

董卓の側近・李儒(りじゅ)は、董卓の愛馬である赤兎馬や金銀財宝を贈り、呂布を買収するという方法を提案しました。

董卓は当初、赤兎馬を手放すことを惜しみましたが「天下を取るためには馬一匹を惜しむべきではない」と説得され、呂布に贈りました。その効果は絶大で、呂布は丁原を裏切り、董卓の義理の息子となったのです。

このように、『三国志演義』における赤兎馬の登場エピソードは、董卓の所有から始まり、呂布を籠絡するための贈り物という展開につながります。

赤兎馬は本当に実在していたのか?

そもそも、この赤兎馬は本当に実在していたのでしょうか。
『三国志演義』は、史実を元に作られてはいますが、あくまで小説でありいわゆるフィクションです。

とはいえ、赤兎馬は三国時代に実在していた可能性が高いと言えます。
その根拠は『三国志演義』以外の複数の文献にも、その名が登場していることです。

まず、『正史』の『呂布伝』にもその名が記載されており

布有良馬曰赤兔
意訳 : 赤兎馬という良い馬がいる

と述べられています。

他にも呂布伝には「呂布は常に赤兎という良馬に乗って敵陣に突進し、ついに張燕を打ち破った」と記述があり、実在した可能性はかなり高いと言えるでしょう。

さらに、呉側の文献である『曹瞞伝』にも

人中有呂布 馬中有赤兔

と記述があり、有名な『人中に呂布あり、馬中に赤兎あり』は、ここから生まれました。

後漢王朝の歴史を記した『後漢書』にもその名が見られることから、当時においても抜群の知名度だったことが窺えます。

このように、複数の史料でその存在が確認できるため、赤兎馬は高い確率で実在した名馬であったと言えるでしょう。

赤兎馬

画像 : アハルテケ public domain

また、赤兎馬はトルクメニスタンの「アハルテケ」であるという説もあり、この地方の馬が古代から名馬であることは司馬遷の『史記』にも「汗血馬」として記載されています。

三国時代に「安息国(パルティア)」と呼ばれた地に存在したアハルテケは「世界最古の馬」とされ、今なお国の宝として高く評価されています。

画像 : 安息国(パルティア)の位置 ※紀元前2世紀西域地図 publicdomain

その特徴は、中国馬とは異なり大柄であることです。

この馬を所有することは、当時の社会における一種のステータスだったと考えられます。

また、当時の最強戦術ともいえる「パルティアショット」も、この地から生まれました。

パルティアショットとは弓騎兵の射法の一つで、前線に出て馬上で後ろ向きに矢を放ってから後退することを繰り返す戦闘方法です。

画像 : パルティアンショットを行うオスマン帝国の弓騎兵 / 中世の年代記として編まれた装飾写本に描かれているミニアチュール。

前漢の武帝が最初に手に入れた?

前漢の武帝時代に、軍人であり外交官でもあった張騫(ちょうけん)が西域に派遣されました。

当時、前漢にとって北方騎馬民族の匈奴(きょうど)は大変な脅威であり、武帝は西域の騎馬民族・大月氏と同盟を結ぶことで匈奴を挟み撃ちにしようと考えたのです。

画像 : 漢と匈奴勢力図 wiki c トムル

張騫は100人あまりの使節団の長として西方に向かいましたが、匈奴の勢力圏を通過中に匈奴に捕らえられてしまいました。

張騫はなんと十数年間匈奴に拘留されました。しかし隙を見て逃げ出し、西へ行くこと数十日、目的地だった大月氏の隣の国・大宛(フェルガナ)に到着したのです。その後、張騫は大月氏へ無事たどり着きましたが、同盟には失敗しています。

こうした流れを経て前漢にも西域の情報が伝わり、武帝は大宛で名馬が生まれることを知りました。外交交渉で手に入れようとしましたが決裂し、2度の遠征軍を送り、多くの名馬と約3000頭の繁殖用の馬を得ました。

武帝は汗血馬を手に入れた喜びから、「西極天馬の歌」を作り、「天馬」と汗血馬を称えたそうです。

汗血馬(赤兎馬?)はどれくらい走ったのか?

汗血馬は1日に1千里(約500km)を走ると言われていますが、これは誇張であると考えられます。しかし、前述したアハルテケは4152kmを84日間で走破したという記録が残っています。つまり1日に約50キロほどとなります。

「汗血馬」という名前に関しては、実際に血を流していたか、そう見えたという説があります。馬の毛色によっては、汗を流した時に血のように見えることがあるようです。また、寄生虫に寄生されている馬は、実際に血の汗を流すことがあります。そして寄生虫による馬の能力低下はほとんどないとされています。

現在、中国ではトルクメニスタンから輸入したアハルテケを「汗血馬」として200頭以上飼育しています。
赤兎馬の血は、今も受け継がれているのかもしれません。

参考 : 『後漢書』『呂布伝』『曹瞞伝』

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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