蜀と魏に仕えた快男児
蜀漢を建国した劉備の軍師参謀役と言えば諸葛亮や龐統、法正などが有名ですが、今回紹介する黄権(こうけん)も彼らに負けず劣らずの人物です。
彼は劉備に厚く信頼を受けるも、止む無く魏に降り、降将として仕えることになりますが、その清廉潔白な態度から曹丕や司馬懿からも高く評価されます。
今回は蜀と魏の両国で評価された隠れた名将、黄権の人生を追ってみたいと思います。
劉備に仕える
黄権は益州巴西郡(えきしゅうはせいぐん)の出身。若くして役人となり、益州を治めていた劉璋に召され主簿(しゅぼ)として仕えます。
この時、劉璋は曹操や漢中郡に割拠する張魯(ちょうろ)の脅威に対抗するため、劉備を呼び寄せて彼らに対抗しようとしますが、黄権は反対します。
「劉備を武将として扱えば不満に思うでしょうし、賓客(ひんきゃく)として扱えば一国に二人の君主がいることになってしまいます。」
しかし、劉璋は黄権の意見を却下し、劉備を益州に招き入れてしまいます。
結果として、212年に劉備は益州を獲るべく攻撃を開始。
黄権は最後まで抵抗しましたが、214年に劉璋が降伏したことで黄権も劉備に降伏します。
漢中争奪戦
最後まで抵抗した黄権を劉備は高く評価し、彼を偏将軍(へんしょうぐん)に任命します。
また、215年に漢中の張魯が曹操に降伏を考えていると聞いた黄権は
「漢中を失えば益州も失う。先に張魯を引き込むべきだ」
と進言し、劉備の命を受けて急ぎ漢中に向かいます。
しかし、先に張魯は曹操に降ってしまったため、計画は失敗してしまいました。
その後、黄権は張飛と共に巴郡に進撃してきた張郃(ちょうこう)を迎撃し、曹操が任命した巴郡太守3名を撃破することに成功します。
218年、劉備は手薄となった漢中を攻略すべく出陣を開始。この時、作戦の計略は黄権によって立案されたと言われています。
219年、黄権の策は見事軍師である法正によって発揮され、劉備軍は漢中を見事に手にすることに成功。さらに魏の夏侯淵を戦死にまで追い込みます。
この勝利により劉備は漢中王に即位し、黄権を治中従事に任命。まさに劉備軍は絶頂期を迎えます。
夷陵の戦い
絶頂期を迎える劉備軍でしたが、悲報が彼らを襲います。
劉備の漢中攻略に合わせ荊州より魏軍を攻撃していた関羽が呉の孫権により、討たれてしまったのです。
これに激怒した劉備は諸葛亮、趙雲らの諫めを無視し大軍を率いて呉へ攻撃を行います。黄権もこれに従いますが、怒りに駆られる劉備に懸念を覚えます。
222年、破竹の勢いで進軍を続ける劉備でしたが、黄権は戦線が伸びきっていることに気が付き…
「わが軍は長江の流れに乗って攻めるのは容易ですが、退却するのは困難です。
私が先陣を務めますので、陛下は後からお越しください。」
と伝えるも、劉備はこれを聞かず、黄権を江北に向かわせ、魏に対する守備を命じます。
結果、黄権の危惧は的中し、長江沿いの夷陵(いりょう)にて劉備軍は陸遜(りくそん)による火計で壊滅。
劉備は命からがら国境沿いの白帝城(はくていじょう)へと逃げ込みますが、黄権の部隊は孤立してしまい退路を断たれてしまいます。
魏へ降伏する
「もはや郷里には戻れない…。」と途方に暮れる黄権でしたが、決断を迫られます。
このまま、北へ向かい魏に降伏するか、南の呉へ降伏するか…。思考の末に黄権は部下を引き連れて魏へと降伏します。
黄権が魏へと去ったとの報告を聞いた蜀の法務官は「黄権の家族を拘束すべき」と劉備に伝えますが、劉備は首を横に振りこう答えました…。
「黄権が私を裏切ったのではない。私が黄権を裏切ったのだ…。」
その後、魏の都洛陽(らくよう)へ連行された黄権は魏帝曹丕と面会し尋ねられます。
「そなたは蜀を捨てて魏に従った。
漢の陳平(ちんぺい)・韓信(かんしん)の例に倣(なら)ったのか?」
と聞くと、黄権は…
「私は劉備様から過分な厚遇を受けておりました…。
魏に降ったのは単に死を免れようとしただけで、古人を真似ようとは思っておりません…」
と涙ながらに答えました。
これを見た曹丕は黄権を鎮南将軍・侍中へと取り立て、自らの車へ同上させることを許可するほど厚遇します。
また、黄権の家族が劉備に処刑されたとの噂が流れますが、黄権はこれを一切信じませんでした。
劉備への忠義を貫く
223年、夷陵の敗戦にて体調を崩した劉備はこの世を去ります。
「劉備死す」の知らせが魏に伝わると、多くのものが競って曹丕に祝賀を述べに伺う中、黄権だけは曹丕の下を訪れませんでした。
これを見た曹丕は黄権を驚かしてやろうと思い、勅令をもって直ちに出席せよと命を下します。
このとき、曹丕はわざと何度も使者を送り出席を催促させたため、周りの人々は内心「黄権は殺されるのでは…?」と恐怖しましたが、黄権は平然として現れたため、曹丕並びに周りの者たちは感心したと言います。
司馬懿に絶賛される
魏に仕えた黄権ですが、そんな彼を褒め称えたのが魏の重臣である司馬懿です。
ある日、司馬懿は黄権に
「君のような優秀な人物は蜀にどれくらいいるのだ?」
と尋ねると黄権は笑いながら答えます。
「あなたが私をそこまで高く評価していただいていたとは存じませんでしたよ!」
また後日、司馬懿は蜀の丞相となった諸葛亮に手紙を送って、こう述べています。
「黄権は快男子です。
ふだんいつもあなた(諸葛亮)を賛美し、話題にしておりますぞ。」
黄権が諸葛亮と司馬懿を繋いでいたのは驚きですが、「英雄は英雄を知る」と言ったところでしょうか。
その後も黄権は魏において昇進を重ね車騎将軍・儀同三司まで出世しますが、240年にてこの世を去ります。
二代目魏帝の曹叡(そうえい)に「三国の中で正当性がある国はどこか?」と尋ねられた際、黄権は「天分によって決めるべき」と答えていますが、はっきりと「魏である」と答えなかったところに、彼が「蜀」に対して強い思い入れがあったことが伺えます。
>このとき、曹丕はわざと何度も使者を送り出席を催促させたため、
曹丕が誰に黄権へ出席するよう催促”させた”のですか?
対象が黄権なら催促”した”のだと思いますが
正しくは
「使者」を送り、「使者」に催促させた
でしょうが「使者」が無駄にダブってしまうので後半の「使者」を省略したのだと思います。
つまり
「使者」を送り、催促させた
ということで、「させた」でも伝わりますし文脈的には矛盾はないかと思います。
催促”した”
となると、曹丕が直接黄権に催促したかのような感じになるので、ニュアンスが少し変わるかと。
催促したのは曹丕自身ですが、直接的に催促したのは使者なので、描写の正確性を優先して「させた」としたのだと思います。