宦官の頂点を極めた曹操の祖父
以前、党錮の禁を中心に「宦官と清流派の戦い」を紹介したが、宦官は自身の権力と蓄財に腐心したような人物ばかりではない。
【三国志以前の大事件】 党錮の禁とは ~汚職まみれの宦官たちが清流派を大粛清
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/81932/
今回は、曹操の祖父であり、宦官の頂点を極めて後漢末期に宮中のボスとして君臨した曹騰(そうとう)を紹介する。
宦官の孫 曹操
宦官となる理由も様々であり、去勢時に既婚であったり子供がいたりした者も存在した訳だが、曹騰は早くから宦官として宮中に入っていたため、物理的に子供を作れなかった。
そんな曹騰に、なぜ息子や孫といった子孫が存在するのだろうか?
実は、曹操の父親である曹崇(そうすう)は、元は「夏侯崇」という名前であった。(ややこしいので、記事内では曹崇で統一する)
夏侯氏の家に生まれた曹崇は養子として曹騰に迎えられ、その息子として生まれた曹操は血縁関係こそないが、紛れもない「宦官の孫」である。(その結果、夏侯氏と曹氏の双方に多数の親類が出来た)
やや話は逸れるが、曹操の一族の関係を整理すると、曹操の親類で古参の武将を見ると夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪とそれぞれ名字が違うが、曹操にとっては父親の実家である夏侯氏の方が血縁関係は近く、曹氏は血の繋がりのない祖父の一族であるため義理の親類である。
4人の皇帝に仕える
曹騰の生没年は不明で、安帝(在位106-125)の頃から宦官だったことは分かっているが、いつ亡くなったのかは不明である。
分かっている事を挙げると、安帝、順帝、沖帝、質帝の4人の皇帝に仕え、宦官の最高位である「大長秋(だいちょうしゅう)」となり、文字通り宦官としての頂点を極めた存在だった。
質帝が崩御した146年までに一線を退いており、桓帝からは費亭候の位を受けているが、前述通りいつこの世を去ったかは書かれておらず、曹騰が余生をどのように過ごしたかは各々で想像するしかない。(漫画『蒼天航路』では、正史の記述が乏しい事を活かして曹騰が霊帝の代まで存命しているオリジナル設定が与えられている)
裏も表も知り尽くした宮中のボス
曹騰が歴史に残る大宦官であったのは間違いないが、どのように政治に関わったのかはほとんど史料に残っていない。
歴史に残るような政策の提言や発明をしたわけでもなく、優れた人物を好み積極的に人材を登用した事を除いて、目に見える形で貢献をしたという記述はない。(人材登用は後述する)
数少ない記述を拾い上げると、曹騰は大長秋として宦官の地位を極めつつ、4人の皇帝に30年以上仕えながら、引退するまで一度も過失がなかったという。
重職とはいえ一日の行動を逐一記録しているはずもなく、目に見えないところで小さな失敗は当然あったと思うが、張譲のように皇帝から権力を奪って悪名を残す事はなかった。(後に曹操が削除させたという事もないだろう)
目立った功績が不明なので評価しづらいが、こういう人物ほど宮中の裏も表も知り尽くした「ボス」として、誰も逆らえない存在感で君臨していたと想像するのはフィクションの影響を受けすぎだろうか。
曹操へと受け継がれた「人材コレクターの血」
前の項でも少し触れたが、曹騰は優れた人材を好み、優秀な人間であれば宦官にとって「敵」である清流派とも積極的に交流した。
清流派とは、前漢の武帝によって制定された「郷挙里選(きょうきょりせん)」という登用システムで選ばれた者の総称で、当時のエリートたちである。
コネ社会と言ってしまえば身も蓋もないが、曹騰は宦官のトップであり、30年以上仕えた宮中の裏も表も知り尽くした、正に「宮中のボス」である。
宮中に於いて絶大な力を持つ曹騰に気に入られたら、その後の将来は約束されたようなものである。
曹騰に登用された清流派は、その期待通り多くの者が出世を果たした。
コネでポジションを与えられても当人にそれだけの実力がなければ意味がなく、それに加え自分を登用してくれた曹騰の期待に応える努力も必要だ。
1800年後も名を残す人材を見出だした曹騰の人物鑑定眼もさすがであるが、曹騰は自分のお陰で出世出来たというような手柄顔は一切せず、恩を着せるような態度も取らなかった。
清流派に対して正当な評価と地位、そして努力出来る環境を用意した曹騰は、歴史的に見てもトップクラスに理想の上司と呼ぶに相応しい存在だが、後の時代を考えると、曹騰の元で宦官と清流派が共存していた時代は、両者のバランスが釣り合った奇跡の時代だった。
曹騰は曹操に負けない人材コレクターであり、曹操の人材好きな資質は曹騰から受け継がれたものと見て良いだろう。
そして、曹騰が作った人脈が後に曹操を助ける事になったのは言うまでもない。
大金の出どころは?
宦官のトップでありながら清流派からも一目置かれる存在だった曹騰だが、本当にクリーンな生涯だったのだろうか。
ある時、蜀から曹騰への賄賂を申し入れる書状を持った使者が発見され、益州刺使の种暠(ちゅうこう)は、証拠となる書状を持って皇帝に曹騰の免職を訴えたという。
宦官のトップである曹騰に取り入るため賄賂を贈ろうとした者が他にも多数いた事は容易に想像が出来るし、賄賂の書状が発見された事実を見れば曹騰も「クロ」で他にも余罪はありそうだが、皇帝は「書状が発見されただけで曹騰が関与した証拠はない」と曹騰を不問にした。
金に対する疑惑を頻繁に目にする現代人としては曹騰を疑ってしまうが、当の曹騰本人は一切気にせず、例え宦官のトップでも疑惑があれば訴えて自身の職務を遂行する种暠の公平さを称賛したという。
美談のように見えて曹騰の裏を顔が見えるようなエピソードだが、この話で更なる疑惑が生じる。
霊帝は「売官」という、文字通り官職を売り出す政策を行ったのだが、曹崇はなんと一億銭で官位を購入しているのだ。
さて、この金は誰の金だろうか?
これこそ証拠がないので、ここからは筆者の説としてネタ半分に受け取っていただきたいのだが、宦官と賄賂が切っても切れない関係である以上、曹騰の疑惑も种暠が訴えた一件のみと考えるのは難しい。
先述した通り、曹騰に取り入るため賄賂を持って現れた者が多数存在したと考えるのが自然であり、後に曹崇や曹操を助けた遺産の額を考えると、曹騰も手土産を快く受け取っていたはずだ。(名目として賄賂と献金の境が曖昧な金もあっただろう)
重ねていうが、これは筆者の考えた説であり、曹騰がどのように莫大な資産を作ったのか、歴史書には書かれていない。
だからこそ色々と怪しいところが目に付くのだが、後世に伝わる功績として人材発掘で大きく貢献している分、完全な悪人だった張譲より好感が持てる。
金に対する疑惑もあるが、その金が曹操の資金として後の魏建国の原動力になっているので、曹騰の歴史に残した役割はかなり大きいと言えるだろう。
正史の記述が乏しく、派手な活躍もないため知名度は劣るが、曹騰はもっと世に名が知られるべき、歴史に残る大宦官であろう 。
参考 : 『正史三国志』
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