魏に仕えた劉備最古参の名将
184年の劉備の旗揚げから付き従った人物(初期メンバー)といえば関羽、張飛、簡雍の3人だが、劉備の元を離れて魏で大成した幻の4人目がいた。
今回は、劉備の最古参武将の一人である田豫(でんよ)の生涯を辿る。
田豫の知名度
まず、田豫という人物だが、『正史』を読み込むような熱心な三国志ファンの間では有名だが、在籍中の記録がほぼ存在しない事と、三国志の入門に最適な『横山三国志』には簡雍共々登場しない事もあり、かなりマイナーな存在である。
筆者も田豫の存在を知ったのは、ゲームの『三國志』シリーズであり
統率 80
武力 72
知力 80
政治 78
魅力 75
という高ステータスの武将が、初期の劉備の元にいたことで驚いた記憶がある。(数字は『三國志14』より)
劉備の元にいた期間が10年にも満たない短い間だったとしても、ここまで有能な武将であればもっと有名になっているはずだが、なぜ田豫の知名度は低いのだろうか。
劉備の旗揚げと別れ
田豫が劉備の旗揚げメンバーの一人であるのは冒頭に書いた通りだが、劉備、関羽、張飛、簡雍も、初期の頃に目立った活躍が書かれていないように、田豫も「劉備とともに各地を転戦した」とあるだけで、黄巾の乱においても何か特別な戦果を挙げたわけではない。
その後も田豫は劉備に付き従っているが、田豫には高齢の母がおり、母のために劉備の元を離れる事を告げる。
劉備は田豫を高く評価しており、涙を流してその別れを惜しんだ。
後の歴史を見ても、田豫は劉備が逃した最大の大魚だったといえよう。
出会った最高の君主
地元に戻った田豫は、公孫瓚(こうそんさん)に仕える事になる。
公孫瓚時代の田豫の功績の一つに、次のような出来事がある。
公孫瓚軍に属していた王門が袁紹に寝返り、一万の兵を率いて攻めてきた時のことである。
田豫は城門に立ち、王門に向かって次のように叫んだ。
「あなたが公孫瓚に厚遇されながら去ったのは、あなたなりに思うところがあったのだろう。だが、あなたが賊として攻めて来たらただの乱人である。知恵のない者でも、他人から器を借りたらそれを又貸ししないものだ。」
この言葉に王門は自らを恥じ、戦わずに退却したという。
一人の兵も失わずに敵を撃退することは立派な功績であった。しかし、公孫瓚は優秀な人物を嫌う性格であったため、田豫は厚遇されることはなかった。結局、公孫瓚は田豫の才能を活かす機会もなく、滅ぼされてしまう。
主を失った田豫は、漁陽太守代行としてやってきた元劉虞配下の鮮于輔(せんうほ)と出会う。
当時、袁紹と曹操の争いが激化しており、鮮于輔は「これから誰に仕えるべきか?」と、田豫に相談を持ちかけた。
当時の最大勢力は袁紹であり、後に起きる官渡の戦いの終盤まで袁紹有利に進んだことは周知の事実であるが、田豫が従属を勧めたのは曹操であった。
田豫が曹操を選んだ理由は明確には記されていないが、曹操は鮮于輔の加入を喜び、田豫ともども厚遇した。
こうして、鮮于輔と田豫も加入した曹操軍であったが、戦況は思わしくなかった。
田豫の元同僚である関羽の活躍によって、白馬の戦いなどの局地戦では勝利を収めたものの、袁紹軍との戦力差に押され、曹操軍は次第に追い詰められていった。
官渡の戦いにおける鮮于輔と田豫の具体的な貢献は明らかではないが、曹操は袁紹に勝利し、その後も田豫は曹操のもとで昇進を重ねていくこととなる。
もし田豫が劉備のもとにいたならば、関羽や張飛とともに大活躍したであろうが、魏という最大勢力で出世を重ね、曹操に厚遇されるのは一握りの人物しかいない。
元劉備配下だから、外様だからといったことは関係なく、努力と才能を正当に評価してくれる曹操は、田豫にとっても最高の君主であっただろう。
劉備最古参から魏の名将へ
曹操の死後も田豫は魏に仕え続け、三代皇帝である曹芳の時代にこの世を去るまで、長寿の人生を全うした。
魏の建国以降、田豫の功績の中でも特に注目すべきは、「異民族の統治」である。
曹操の存命中にも、異民族の反乱を鎮圧する際に貢献した実績があるが、田豫は為政者としての才能も発揮した。
218年末、候音が関羽と内通して起こした反乱が鎮圧された際、田豫は南陽郡の悪政が反乱の原因であることを考慮し、「情状酌量の余地がある」として残党を説得し、解散させた。これにより、必要以上の血を流すことなく反乱の余波を収めたのである。
このように、田豫は反乱の鎮圧と戦後処理に長けており、北方で反乱が起きた際は田豫の姿と活躍があった。
田豫は生没年こそ不明であるものの、82歳と当時としては破格の長生きで、70代まで魏に仕え続けたという。
私生活は質素で慎ましく、家族は困窮していたという逸話が残されている。これは夏侯惇に似た話であり、派手さを嫌った田豫らしいエピソードである。
『正史三国志』を著した陳寿は、田豫について以下のように評している。
「清廉に身を処し、計略に通じていた。能力に対して地位は過小であった」
田豫はその生涯を通じて、実直かつ誠実な人物であったと言える。
参考 : 『正史三国志』
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