江戸時代

徳川家康は大坂夏の陣で討死にしていた? 「堺・南宗寺の墓の謎」

家康の大坂夏の陣「死亡説」とは

徳川家康は大坂夏の陣で討死にしていた?

画像 : 徳川家康 孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』

徳川家康は元和2年(1616年)4月17日、駿府城にて75歳で没した。

その遺体は家康の遺言に従い、その晩に久能山東照宮に納められ、後に一周忌をもって日光東照宮に移されたというのが通説である。

しかし、家康は約11か月前の大坂夏の陣真田幸村(信繁)の猛攻を受け、後藤又兵衛(基次)に槍で刺されて堺で死亡したという異説もある。

この説によれば、家康の遺体は堺の南宗寺に密かに埋葬され、混乱を避けるために孫娘の婿である小笠原秀政が家康の影武者を務めたとされる。

はたして家康は本当に大坂夏の陣で討ち死にしていたのか。堺・南宗寺にある墓の謎について探ってみた。

南宗寺とは

徳川家康は大坂夏の陣で討死にしていた?

画像 : 南宗寺。 所在地は大阪府堺市。 wiki c 663highland

南宗寺(なんしゅうじ)は、大阪府堺市堺区南旅篭町に所在する臨済宗大徳寺派の寺院である。

弘治3年(1557年)、当時近畿随一の権力者であった三好長慶が、非業の死を遂げた父・元長の菩提を弔うために開山を依頼し創建したとされる。

創建当初は堺市宿院町付近に位置していたが、大坂夏の陣で豊臣方の大野治房による堺焼き討ちで焼失し、元和5年(1619年)に当時の住職・沢庵宗彭によって現在の場所に移転再興された。

昭和20年の大阪大空襲で開山堂や方丈、茶室、東照宮などを失ったが、境内は江戸時代の禅宗寺院の雰囲気を今も残している。

開山堂の跡地には「家康の墓」とされるものがあり、山岡鉄舟筆の「この無名塔を家康の墓と認める」という碑文が残っている。

画像 : 南宗寺 徳川家康の墓 photoAC kanomao

この墓が建てられている場所は、戦災で焼けるまで東照宮があったところで、昭和42年に水戸徳川家家老の末裔・三木啓次郎が建てたものである。

碑石の銘には「東照宮 徳川家康墓」とあり、裏側には賛同者としてパナソニック創業者・松下幸之助や、当時の堺市長、国務大臣らの名が刻まれている。

南宗寺史には

南宗寺には、以下のような逸話が伝わっているという。

大坂夏の陣で真田幸村(信繁)の攻撃を受けた徳川家康が駕籠に乗って逃げる途中で、後藤又兵衛に見つかり、又兵衛が槍で突いたが確認をせずに去った。家康は辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けると既に息絶えていた。遺骸は南宗寺の開山堂の下に隠され、後に改葬された。

しかし、史実では大坂夏の陣の前哨戦で堺は既に大野治房によって焼き払われ、南宗寺は焼失していた。

また、後藤又兵衛も家康を刺したとされる日の前日、道明寺の戦いで討死しているのだ。

画像 : 後藤又兵衛 public domain

参考 : 大坂夏の陣 散っていった猛将たち
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/52018/#i-3

豊臣家が滅びた後に、秀吉や秀頼を慕う上方の人々の願望がこの伝説を生み出し、本物の墓を作らせたのかもしれない。

日光東照宮には、この話に符合する遺物がある。
それは家康が夏の陣で用いた網代駕籠である。三つ葉葵紋をあしらった豪華な駕籠だが、なんと屋根に槍が貫通した跡が残っているのだ。これは又兵衛が家康を突き刺した槍穴跡なのだろうか? 史実に日時の誤りがあったとしたら、この逸話も否定しきれないものとなる。

また、南宗寺には家康の死に関する別の言い伝えもあるという。

『大阪府全志』によれば、家康は真田幸村(信繁)の猛攻をしのいだ後、大坂城を攻め落とした際、城兵の乱射する弾丸に当たり、その傷がもとで死んだとされている。そこで堺の商人・海部屋ら7人の糸割商(生糸輸入商)に蜜旨が下り、南宗寺住職に命じて秘密裏に遺骸を同寺に葬り、その上に紫雲石を安置したという。

この事実は隠されていたが、やがて7人は幕府に願い出て紫雲石を日光廟に奉納することが許された。しかし実際は家康の遺骸の改葬が目的であった。この功績により、7人は毎年正月に日光を参拝することが許された。

しかも、徳川宗家・御三家・御三卿以外は許されない「内殿での参拝」が許されたという。

小笠原秀政が影武者説

その後、家康の孫である登久姫を娶った小笠原秀政が、家康の影武者を務めたという説もある。

史実では、秀政は大坂夏の陣・天王寺口の戦いにて大坂方の猛攻を受けて瀕死の重傷を負い、間もなく死去したとされる。

この説によれば、実際は家康が死亡したことを隠すため、無傷だった秀政が影武者となったという。
徳川家と幕府は家康の死を絶対に認めることができず、47歳の秀政が74歳の家康の影武者を務めたとされるが、年齢的にも少し無理がありそうだ。

小笠原秀政は長男の忠脩とともに大坂夏の陣で武功を立てたが、父子共々戦死している。後に小笠原家が改易の危機に陥った際、この秀政と忠脩父子の活躍のおかげで度々救われている。
この説は、こうした経緯から生まれたものと考えられている。

他には、河内国吉田村出身の百姓・矢惣次が家康の影武者を務めていたが、用無しとなって毒入りの天ぷらで殺されたという説もある。

秀忠・家光が詣でた

画像 : 徳川秀忠 public domain

元和9年(1623年)7月10日に上洛した秀忠が南宗寺を参拝し、その直後に将軍職を家光に譲り、新将軍となった家光が8月18日に南宗寺を訪れたという。

さらに堺奉行が就任すると、まず南宗寺を訪れて拝廟し、代々この寺を保護し続けた。
そして先述したように、かつて南宗寺には家康を祀る東照宮があり、その唐門が現存し、門の上には徳川家の三つ葉葵の紋が付いているのだ。門に続く壁の屋根瓦にも三つ葉葵の紋が見られる。

秀忠と家光が南宗寺に参拝に来たのは、南宗寺の墓が「家康の墓」とされる最大の根拠とされ「その他に南宗寺を訪れる理由はない」と南宗寺の田島住職は述べている。

しかし「家康が大坂夏の陣で討死した」という説には決定的な史料や物証がないのも事実であり、この話の真相は未だ謎に包まれている。

参考文献:「史疑 徳川家康」「南宗寺史」「大阪府全史」ほか

 

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日本史(主に戦国時代、江戸時代)専門。

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