流刑は、古代中国における刑罰の一つであり、罪を犯した者を辺境の地へ送り、労役に従事させるものであった。
この刑罰の歴史は古く、中国神話の三皇五帝の時代、堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)の治世にまで遡る。
※三皇五帝とは、古代中国の伝説に登場する帝王であり、三皇は伏羲(ふっき)、女媧(じょか)、神農(しんのう)、五帝は黄帝、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(ていこく)、帝堯(ぎょう)、帝舜(しゅん)とされる(人名・配列には諸説あり)。
流刑は故郷を離れ、厳しい環境と労役に耐えなければならない、非常に過酷な刑罰であった。
流刑の起源
『史記・五帝本紀』によると、舜(しゅん)が、共工(きょうこう)という人物を幽陵(現在の北京市周辺)に流し、北狄(北方の異民族)の風俗を改めるよう提案した記述がある。
※舜は、前王の堯(ぎょう)から禅譲を受け、堯舜時代と呼ばれる理想的な統治を行ったとされる。
原文『史記・五帝本紀』より:
「于是舜归而言于帝,请流共工于幽陵,以变北狄;放驩兜于崇山,以变南蛮;迁三苗于三危,以变西戎。」意訳:
舜(しゅん)は帰還後、帝(堯)にこう提案した。「共工を幽陵に流し、北狄の風俗を改めさせましょう。また、驩兜(かんとう)を崇山(現在の広西チワン族自治区の山地)に流し、南蛮(南方の異民族)の風俗を変え、三苗(さんびょう)を三危山(現在の甘粛省敦煌市付近)に移して西戎(西方の異民族)の風俗を改めさせましょう。」
これらの地は、当時の中原地域から見れば辺境の地であり、社会から隔絶された厳しい環境だった。
秦漢時代になると、流刑はより体系的に運用されるようになった。
戦国時代末期、始皇帝の母である趙姫(ちょうき)と関係を持ったことで知られる嫪毐(ろうあい)が反乱を起こした。
この事件では、嫪毐が主犯として車裂の刑に処され、事件に関与したとされる4000人以上が蜀地(現在の四川省)に流刑となっている。
流刑の特徴
秦漢時代の刑罰には「五刑」と呼ばれる体系があり、墨刑(顔に刺青を施す)、劓刑(鼻切り)、剕刑(足切り)、宮刑(陰部切り)、大辟(死刑)となっていた。
しかし、あまりに非人道的だったので、隋唐時代になると刑罰の改革が進み、笞刑(竹板で打つ)、杖刑(棒で打つ)、徒刑(禁錮と労役)、流刑(遠隔地での労役)、死刑の「新五刑」が確立された。
流刑は、通常2000里(約1000km)以上の距離に及び、罪人は歩いてその地に向かわなければならなかった。
元朝では、流刑地までの距離が罪の重さに応じて増減し、最遠で3000里(約1500km)に達することもあった。
流刑地の過酷すぎる環境
流刑地の多くは、中原から見て非常に過酷な環境だった。
北方の幽州や遼陽では極寒、南方の嶺南では熱帯気候、西域では乾燥地帯と温度差が激しい気候に苦しめられた。
さらにその生活は、食料や住居などの基盤が乏しい中での労働を強いられるもので、多くの受刑者が病死や自殺に追い込まれた。
たとえば、かつて始皇帝の後見人として権勢をふるった宰相の呂不韋(りょふい)は、自ら毒を仰いで死を選んだと言われている。
主な流刑地
古代中国における流刑地には、地理的、気候的、文化的な特徴があり、受刑者たちはそれぞれの土地で特有の過酷な状況に直面することになった。
以下に、主な流刑地とその背景を詳述する。
1. 嶺南地方(現在の広東省、広西省など)
嶺南地方は、古代には「南蛮」と呼ばれる南方の地域を指し、中原から隔絶された未開の地とされていた。
秦漢時代、この地域は高温多湿の熱帯気候が支配し、マラリアや熱病といった伝染病が流行していた。流刑地としての嶺南には、現代でいう広東省、広西省、海南島、さらにはベトナム北部も含まれていた。
この地に流された人々は、気候や食物、風土の違いに苦しむことが多く、生き残るためには現地の文化に適応しなければならなかった。
北宋の文学者である蘇軾(そしょく)は、嶺南の黄州(現在の湖北省黄石市)や儋州(現在の海南省)に左遷されたが、その地での生活が後の文学に影響を与えた。
2. 幽州および北方(現在の北京市周辺、遼寧省など)
幽州は、古代における中国の北方防衛の拠点であり、現在の北京市を中心とする地域を指す。
北方の気候は非常に厳しく、特に冬季は氷点下40度近くまで冷え込むこともあった。
清朝時代の代表的な流刑地である寧古塔(現在の黒竜江省牡丹江市海林市)は、極寒の流刑地として恐れられ、流刑は実質的な死刑に等しかった。
寧古塔では過酷な労働を強いられるだけでなく、極寒の環境下で生き延びるために、薪を集めたり狩猟を行ったりする必要があった。
清初の詩人・吳兆騫(ごちょうけん)は、この地で23年間を過ごし、その間に作られた詩が現在も残されている。
3. 西域および西北地方(現在の新疆、甘粛省など)
西域は、古代シルクロードが通る交易の要所でありながら、中原の人々にとっては過酷な砂漠地帯だった。
新疆や甘粛省は乾燥した気候に加え、昼夜の温度差が激しいため、流刑者にとって非常に厳しい土地だった。
漢代の将軍・蘇武(そぶ)は、匈奴との外交使節中に捕らえられ、北海(現在のモンゴル付近)に19年間流されるという過酷な運命をたどった。
彼のように耐え抜いた例は稀で、多くの流刑者が命を落とした。
4. 雲貴川地方(現在の四川省、雲南省、貴州省など)
雲貴川地方は険しい山岳地帯が広がり、特に四川省は「蜀道難」(蜀の道は難しい)と詠われるほど道のりが険しい地域であった。
この地域は湿気が多く、瘴気(しょうき)と呼ばれる有毒な空気や病気が蔓延していた。
唐代の詩人・李白(りはく)は、永王の反乱に関与したとして貴州省の夜郎(現在の遵義市)に流される途中、幸運にも唐玄宗の恩赦を受けて流刑を免れた。
5. 房陵(現在の湖北省十堰市房県)
房陵は、他の流刑地と異なり、比較的中原に近い土地である。
広大な森林地帯に囲まれたこの地は、主に高貴な身分の人々が流される場所として知られていた。
唐代の女帝・武則天は、息子である中宗李顕(りけん)を廃位した際、彼を房陵に流した。
その後、李顕は赦免されて皇位に復帰している。
房陵は辺境の流刑地とは異なり、流された者が比較的短期間で復帰する例も多かったという。
終わりに
流刑は、古代中国の刑罰制度において死刑に次ぐ重い罰であった。
それは単なる罰則に留まらず、統治者にとっては辺境地の開拓や管理を強化する手段でもあった。
一方で、蘇武や李白のように、流刑地での過酷な生活を耐え抜き、その経験を通じて後世に文化的な影響を残した人物も存在する。
流刑地の歴史は、当時の社会制度や人間の適応力、逆境に立ち向かう精神力を今に伝えている。
参考 : 『史記』『旧唐書』他
文 / 草の実堂編集部
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