春秋戦国

『始皇帝、激怒』李信率いる20万の秦軍が大敗 ~老将・王翦はなぜ60万要求したのか

秦の台頭と六国統一の野望

画像 : 紀元前260年の戦国七雄 wiki c Philg88

紀元前3世紀、中国大陸は「戦国七雄」と呼ばれる七つの大国が覇権を争う時代であった。

その中で西方の秦は、他国に先駆けて軍事・政治改革を進め、強大な国家へと成長していった。

この基盤を築いたのは、秦の宰相であった商鞅(しょうおう)である。
彼は紀元前4世紀頃、秦の孝公に仕え、大規模な法制度改革「商鞅の変法」を実施し、国の統治機構と軍事力を強化した。
この結果、秦は最も強大な軍事国家へと発展していく。

紀元前247年、秦王・嬴政(えいせい、後の始皇帝)が即位すると、その軍事力と政治力を背景に、六国併呑の野望を本格化させた。

画像 : 始皇帝 public domain

秦王・政は法家の学者である李斯(りし)を登用し、中央集権体制を強化した。また、戦争においては、精鋭の弩兵を擁し、標準化された武器と装備を整備することで、各国の軍隊に対して優位に立った。

こうした軍事力を背景に、秦は他国を次々と攻略し、中国統一への道を突き進んでいったのである。

しかし、南方の大国・は、容易に屈服させられる相手ではなかった。

楚は長江流域を中心に広大な領土を持ち、独自の文化圏を形成していた。戦国時代初期には呉越を併合し、最盛期には領土面積で秦を凌ぐほどの規模を誇っていた。

大国・楚の力

秦が楚攻略に苦慮した最大の理由は、その地理的条件と軍事力にあった。

特に長江や洞庭湖といった天然の要害は、外敵の侵攻を阻む防衛線として極めて有効だった。
戦国時代後期の戦争は、戦車戦が衰退し、歩兵と騎兵を主体とする戦闘が主流となっていたが、楚の地形は山岳や河川が複雑に入り組み、騎兵や大規模な軍団の機動は制限されたのである。

さらに楚軍の戦術も独特であった。『史記』にも「楚人は軽剽(身軽で素早い)なり」と記されており、楚軍は機動的な遊撃戦を得意としていた。

秦軍が正面突破を試みても、楚軍は森林や湿地帯に撤退し、持久戦を展開することで敵の消耗を狙った。

白起

画像 : 白起 public domain

紀元前278年、秦の名将・白起(はくき)が楚の首都・郢を陥落させた際も、楚は一時的に陳(現在の河南省淮陽県)へ遷都し、その後、寿春(現在の安徽省寿県)に本拠を移して抵抗を続けた。

こうした楚の粘り強い抵抗の背景には、民衆の気質も影響していたとされる。

中原諸国が「礼」を重んじる儒家的な文化を形成していたのに対し、楚では巫術や鬼神信仰が盛んであり、兵士たちは「祖国防衛」を神聖な使命とみなしていた。

当時、秦の廷尉だった李斯は、こうした楚の文化的背景を考慮し、短期決戦では制圧できないと警告していたとされる。

実際、秦の天下統一後も楚の反乱は続き、項羽の蜂起により秦が滅亡する遠因となっている。
楚の軍事力と独自の精神性は、秦にとって最後まで脅威であり続けたのである。

李信の二十万の敗北

紀元前225年、秦王政は楚攻略の将軍選びにあたり、二人の将軍に意見を求めた。

若き将軍・李信は「二十万の兵で十分」と進言したのに対し、老将・王翦(おうせん)は「六十万が必要」と主張した。

秦王政は王翦の慎重さを「老いて臆病になったな」と評し、勇猛な李信と蒙恬に二十万の兵を授け、楚征討を命じた。
王翦は自らの進言が退けられると、病を理由に辞職し、故郷の頻陽へ帰った。

しかし、この決定が大誤算であった。

画像 : 楚軍イメージ 草の実堂作成

項燕(項羽の祖父)率いる楚軍が反撃に転じると、秦軍は三日三夜にわたって執拗に追撃され、ついに李信の軍は大破。二つの要塞が突破され、七人の都尉が討ち取られた。

秦軍は総崩れとなり、敗走を余儀なくされたのだ。

秦軍は最初の攻勢で勝利を収めたものの、長距離遠征の負担が大きかった。そのため、項燕が反撃に転じると、補給が続かない秦軍は持ちこたえられず敗北した。

王翦が六十万人を要求した理由がここにあったと考えられる。

「欲深い小人」を演じた王翦

画像 : 王翦 public domain

秦王政はこの報告を聞くと激怒し、自ら馬を駆って頻陽の王翦の屋敷を訪れ、将軍として復帰するよう懇請した。

「寡人(わたし)は将軍の策を用いなかったがために、李信は秦軍の名を辱めた。今や楚軍は日々西へと進軍している。将軍よ、病を理由に寡人を見捨てるつもりか!」

王翦は深く頭を下げ、静かに答えた。

「老臣はすでに衰え、病を患い、心も乱れております。どうか大王はより賢明な将をお選びください。」

しかし、政は言葉を遮り、強い口調で命じた。

「もうよい、将軍は何も言うな!」

王翦は再び進言した。

「大王がどうしても臣をお使いになるのであれば、六十万の兵をもってしなければ勝利は望めません。」

ついに政はこれを受け入れた。

「よろしい、将軍の策に従おう。」

こうして王翦は六十万の大軍を率いることとなり、政自らが灞上まで送った。

そして、その出征に際し、王翦は多くの良田や屋敷、庭園を求めた。 これを聞いた政は、怪訝そうに尋ねた。

「将軍よ、これから戦に赴くのに、なぜそんなに貪欲なのか?」

王翦は微笑みながら答えた。

「大王のために戦う臣は、どれほどの功績を立てようとも、封侯となることは決して許されません。それゆえ、大王が臣に心を寄せておられる今のうちに、子孫のための屋敷や田畑を求めているのです。」

この言葉を聞いた政は、しばし沈黙した後、大笑いした。

王翦は出発した後も、さらに使者を派遣して良田を追加で求めた。 これを聞いた部下は、さすがに疑問を呈した。

「将軍は戦の前に、なぜこんなに貪欲に屋敷や田畑を求めるのですか?」

王翦は静かに首を振り、言った。

「いや、そうではない。大王は猜疑心が強く、人を容易には信じぬ。今、秦国の兵士のほとんどが私に託されている。このような状況で、もし私が何も求めなかったなら、かえって『王翦は何か大きな野心を持っているのではないか』と疑われるだろう。だからこそ、私は田畑や屋敷を求め、ただの欲深い小人に見せかけたのだ。」

こうして王翦は慎重な戦略と、周到な心理戦をもって、楚の征服に挑むこととなった。

王翦、慎重策で楚を討つ

画像 : 王翦と60万の兵 イメージ 草の実堂作成

秦の六十万の増援の報を受けた楚は、国内の全軍を動員して迎え撃つ構えを見せた。

しかし王翦は、楚軍の挑発には決して応じず、徹底して持久戦の構えを見せた。

王翦が六十万の大軍を要求した背景には、冷徹な現実分析があった。

当時の楚の人口は約五百万と推定され、その気になれば五十万もの兵を動員できた。さらには兵站の問題も深刻であった。秦の本拠地・咸陽から楚の中心部までは千キロ以上離れており、糧秣の輸送だけでも膨大な人員が必要とされた。

『史記』には

王翦至,堅壁而守之,不肯戰 (王翦は到着すると、堅固な陣地を築き、戦おうとしなかった)

『史記』「白起王翦列伝」より引用

と記されている。これは単なる守勢ではなく、楚軍の士気を削ぐための計算された戦略であった。

王翦は日ごとに兵を休ませ、洗沐(体を清めること)をさせ、食事を充実させて士気を維持した。自らも兵士たちと共に食事をとり、「故郷の家族には十分な土地を与える」と約束し、兵たちの不安を和らげた。

楚軍は何度も野戦を挑んだが、秦軍が動かないため、ついに東へ撤退を始めた。その瞬間を逃さず、王翦は全軍を挙げて追撃に転じた。

楚軍が兵糧不足で弱体化したところに秦軍の総攻撃が加わり、楚軍は壊滅。蘄南において、楚の総大将・項燕が戦死(もしくは自害)すると、楚軍は完全に崩壊し、敗走した。

こうして戦いが続くこと一年余り、ついに楚王・負芻(ふすう)を捕らえ、楚の全土を秦の郡県としたのである。

おわりに

楚の滅亡により、大勢は決した。

王翦の子・王賁が燕を攻略し、さらに戦わずして斉を降伏させた。そして紀元前221年、秦王政は中国全土を統一し、自らを「始皇帝」と称したのである。

統一後、王翦は軍事の第一線から退いたものの、王賁と共に一定の影響力を持ち続けた。
しかし、始皇帝の中央集権化が進む中、軍事面での役割は次第に縮小していった。

王翦の戦いは、単なる軍事戦略を超え、歴史の流れを決定づけるものであったといえるだろう。

参考 : 『史記』「白起王翦列伝」他
文 / 草の実堂編集部

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