女帝が生まれた唐の時代

画像:武則天の治世期(約700年頃)の唐王朝版図。中央アジアから朝鮮半島西部まで勢力を及ぼしていた最盛期 Ian Kiu / CC BY-SA 3.0
七世紀の唐は、国力・文化ともに最盛期を迎えていた。
唐の都・長安には各地から商人や学者が集まり、国際色豊かな都として繁栄を誇っていた。
この時代に現れたのが、後に中国史上ただ一人の女帝となる「武則天」である。
日本では「則天武后」の名でも知られている。
彼女は、唐の第2代皇帝・太宗(李世民)の才人(さいじん、妃嬪の位の一つ)として入内し、のちにその息子である高宗の皇后となり、最終的には自ら皇帝の位に就いた。
男尊女卑が強く根付いた封建社会において、女性が皇位に就いた例は他になく、その存在自体が政治史上の大きな転換点となった。
ただ、その実像は長らく曖昧なままだった。後世に残る多くの肖像画は後代の想像に基づくものであり、当時の容貌を正確に伝えるものではない。
よく知られた肖像画は以下である。

画像 : 明代の武則天像 public domain

画像 : 明〜清代頃の武則天像 public domain

画像 : 清代の武則天像 public domain
これら3枚はいずれも「武則天像」として後世に描かれた想像図・伝承画で、かつてWikipediaなどでも掲載されていた。
ただし、いずれも明・清代に描かれた後世の作品である。
では、実際の武則天はどのような姿をしていたのだろうか。
その手がかりを残す作品が、唐代の宮廷画家によって描かれた『唐后行从図(とうこうこうじゅうず)』である。
『唐后行从図』が伝える、女帝の行列

画像:『唐后行从図』武則天とその随臣を描いたとされる。唐代の画家・張萱の作と伝えられる Public Domain
『唐后行从図』は、唐代の宮廷画家・張萱(ちょうけん)の筆によると伝えられる作品である。
縦180センチ、横100センチの絹本着色画で、女帝が従者を伴って外出する場面が描かれている。
画面の主役は、中央やや右寄りに立つ女性で、鮮やかな青衣に身を包み、威厳ある姿を見せている。

画像 : 武則天の拡大部分 public domain
この人物こそが武則天とされ、現在はWikipediaでもこの部分が切り抜かれ、代表的な肖像として使用されている。
注目すべきは、画面左上に描かれた赤衣の人物である。
長い鞭を振り上げて地面を打ち鳴らすその姿は、皇帝の行幸を告げる「鳴鞭(めいべん)」の儀を表している。

画像:「鳴鞭」の儀を行う赤衣の人物 Public Domain
この儀式は皇帝にのみ許された特権であり、ここで鳴鞭が行われていることが、描かれているのが「女帝=武則天」であることを示す有力な根拠となっている。
また、従者たちの列も見逃せない。
画面には27〜28人ほどの随行者が描かれ、そのうちには女官や宦官、護衛兵の姿もある。
香炉を抱える者、扇や華蓋(かがい)を掲げる者など、それぞれの役割が細かく描き分けられている。
この行列は、皇帝の外出儀礼である「卤簿(ろぼ)」の簡略版とみられ、規模こそ小さいが、格式は明らかに帝位にある人物のものである。

画像 : 『唐后行从図』武則天の周囲 public domain
描かれた人物の配置や動作には緊張感があり、武則天を中心にすべての視線と動線が収束するように構成されている。
画面からは、女帝の威厳とともに、周囲がその存在に寄り添うような独特の空気が感じられる。
宮廷画家・張萱は、武則天の死後まもない8世紀前半(唐・玄宗期)に活躍した人物で、武則天の没時(705年)にはまだ若年だったとみられ、直接の面識はなかった可能性が高い。
ただし、前述した武則天の行列(卤簿)は、帝権を象徴する公開の儀礼でもあり、しばしば民衆や臣下に威容を示す政治的演出でもあった。
若年期の張萱がその姿を直接見た、あるいは当時の目撃者から詳しい話を聞いた可能性は十分に考えられる。
絵が伝える「武則天の姿」
『唐后行从図』に描かれた武則天は、ややふっくらとした体つきで、顔は丸みを帯び、頬に柔らかな陰影が落ちている。

画像 : 武則天 顔の部分 public domain
唐代の女性像に共通する豊満さを備えつつも、立ち姿には威厳があり、女帝としての風格が際立つ。
身にまとっているのは青地の交領衣(こうりょうい)で、上質な絹の質感が筆の流れから伝わる。
頭には宝玉をちりばめた冠を戴き、首飾りや耳飾りなどの装飾も控えめながら重厚である。
袖口の翻りや裾の動きには、風をはらむような軽やかさがあり、静止画でありながら生命感がある。
注目すべきは、その身長の描かれ方である。
周囲の従者に比べ、武則天の姿は一段と高く描かれているのだ。

画像 : 周囲より一回り大きい武則天 public domain
これは帝位の威容を示す演出と考えられるが、実際に彼女が当時の女性としては長身だった可能性を示唆する見方もある。
顔立ちは、どこか写実的でもある。
細く上がった目尻、穏やかに閉じた唇には、厳しさと落ち着きが共存している。
そこには権力者としての冷静さと、人間としての気配が同居しており、武則天という存在が恐れと尊敬の狭間で語り継がれてきた理由の一端を感じられる。
名画の作者と真筆論争
張萱(ちょうけん)は唐代宮廷画の名手であり、宮中の人物や儀礼の場面を得意とした。
その筆致は柔らかく、衣の線には流れるようなリズムがあり、人物の気品を巧みに表現している。
代表作に『虢国夫人遊春図』があり、同じく華麗な宮廷文化を描いた名画として知られている。

画像 : 『虢国夫人遊春図』public domain
ただし、武則天が描かれた『唐后行从図』が、本当に張萱の手によるものかについては、古くから議論が絶えない。
現存する作品は、北宋・徽宗の時代に制作された「摹本(もほん):原作を忠実に写した正統な模写」とされ、原本はすでに失われていると考えられている。
とはいえ、全体の構図や儀礼表現の厳格さは明らかに唐の宮廷文化に基づいており、原図が唐代に描かれたものであることはほぼ確実とみられている。
このように、『唐后行从図』は意見が分かれる部分もあるが、研究者の多くは「たとえ宋代の模写であっても、唐代の原貌を伝える貴重な資料」であると評価している。
現代に残る評価と意義
『唐后行从図』は長らく宮廷画の一例として知られるにとどまっていたが、近年になって改めて注目を集めている。
2013年、フランスの小規模なオークションに出品された際には、当初わずか1,500ユーロ(日本円で24万円ほど)という低い評価額が付けられた。
だが、国内外の研究者がその価値を指摘したことで、最終的には約478万ユーロで落札され、2016年に上海で公開展示された。
この出来事は、単なる美術市場の話題にとどまらなかった。
中国史上唯一の女帝を描いたとされる作品が、長い時を経て再び評価を得たことは、武則天という存在そのものの再認識にもつながったからである。
武則天は、古くから「冷酷な女帝」として描かれることが多かった。
しかし、唐の美術や当時の記録を照らし合わせると、その人物像は決して単純ではない。
彼女は強い意志と政治的手腕を持ちながらも、文化と知の力を重んじ、国家の制度や人材登用の仕組みを整えた治世者でもあった。
『唐后行从図』に描かれた立ち姿や表情は、その複雑な人間像を象徴しているかのようである。
千年以上の時を経てもなお、女帝・武則天の姿は消えることなく、人々の前に立ち現れている。
参考 : 旧唐書』巻76「則天皇后本紀」司馬光『資治通鑑』陽陽羊「唐后行从图,原来武则天长这样」他
文 / 草の実堂編集部
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