
画像:『母子』上村松園 画 1934年 東京国立近代美術館蔵 重要文化財 public domain
私たち哺乳類が生まれてからしばらくの間、栄養源として飲み続ける「母乳」。しかしすべての母親が、我が子に十分な量の母乳を与えられるわけではない。
母体の死亡や健康状態の悪化により母乳を与えられない場合はもちろんのこと、たとえ医学的には健康上の問題がなかったとしても、母乳育児を続けられないケースがあるのだ。
かくいう筆者も子を持つ母親だが、母乳の出が悪く、子供も平均より小さく産まれて吸う力が弱かったため、生後1ヶ月頃までは何とか母乳と粉ミルクの混合授乳で乗り切っていたが、その後は母乳育児を諦めて粉ミルクに頼り切るようになった。
筆者自身が乳児の頃も母の母乳の出が悪く、母乳はほとんど飲まず粉ミルクを飲んでいたと聞かされていた。さらに筆者の祖母は命と引き換えに母を産んだため、母は乳児期に母乳を1滴も飲むことなく、主に粉ミルクを与えられて育ったという。
つまり私たち親子は3代にわたり、ほとんど母乳を飲まずに成長したわけだ。粉ミルクという人類の偉大なる発明には感謝してもしきれない。
それでは日本にまだ粉ミルクがなかった時代は、乳児の命の糧である母乳が飲ませられない場合、親たちはどのように我が子の命をつないでいたのだろうか。
今回は、現代のように良質な育児用ミルクが手に入らなかった時代に、乳児が母乳以外に何を与えられていたのか、また十分な母乳を我が子に与えられない親たちがどんな苦労を味わっていたのかなど、日本における哺育事情の歴史について触れていきたい。
※哺育…動物の親が、乳を飲ませたり、食物を与えたりして、子を育てること
生母に代わって子供に母乳を与える職業【乳母】

画像 : 春日局(斎藤福) publicdomain
日本で育児用の粉ミルクが初めて製造販売されたのは、1917年、和暦でいえば大正6年のことで、歴史的には第一次世界大戦が行われていた時期だった。
ではそれまで、十分な母乳を与えられない親たちはどのように子供を育てていたのだろうか。
まず上流階級では皆様のご想像通り、母に代わって子供に母乳を与える役割を担う「乳母(うば)」が雇われていた。
もっとも日本の上流階級においては長らくの間、実母の母乳が出る出ないにかかわらず、乳母は子女1人1人につけられるものだった。
実母が授乳をしなかったのは、母乳が十分に出ることが分かっている女性が育てた方が子供の生存率が上がるという理由もあったが、そもそもかつての日本には、高貴な女性は子育てのような雑事を行うべきではないという考えがあったのだ。
さらにはどうしても我が子可愛さに甘やかしてしまう実母よりも、産みの母ではない乳母の方が、子供の躾や教育をしっかり行えるという考えもあった。

画像:彦火火出見尊(火遠理命) 音川安親編 万物雛形画譜 public domain
乳母の歴史は古く、最古の史書と呼ばれる『日本書紀』に「乳母(ちおも)」という記述が見られる。
神話上では神武天皇の祖父である彦火火出見尊が、日本国内で初めて我が子のために乳母を選定した人物とされている。
律令時代になると、三つ子など一度に多くの子供を産んだ貴族や役人の家には、朝廷から乳母1名を支給していたと『続日本紀』に記されている。
平安時代後期からは、天皇や上皇の乳母の縁を通じて権力を得る者が現れ、武家社会にも乳母文化は広まっていった。
上流階級や裕福な家においては乳母はなくてはならないものとなり、その身分や働きによって乳母にも違いが生じていく。
ただ母乳を与えるだけの女性は「御差し」や「御乳持(おちもち)」と呼ばれ、養育係も兼ねた身元が良く教養のある女性は「乳母(めのと)」と呼ばれるようになり、乳母(めのと)は特に良い待遇を受けながら主君の子の世話をしていた。
江戸時代が終わり武家社会が幕を閉じた後も、皇室や華族、富裕層の家においては乳母制度が続けられた。
皇族の女性が我が子を自らの母乳で育てるようになったのは、上皇后が皇太子妃時代に今上天皇を産んだ時からだ。
乳母に選ばれる女性の条件は時代や雇われる家によって異なるが、たとえば徳川第4代将軍である家綱の誕生の折には
1.身元が良いこと
2.子が多いこと
3.夫婦がそろっていること
4.両親が健在であること
5.年齢は21歳から30歳まで
という条件のもとで乳母が探された。
この乳母選定の基準を提示したのは、自身も第3代将軍家光の乳母を務めた春日局であったという。
乳母が雇えない庶民の母乳事情
粉ミルクがない時代であっても、上流階級の家に生まれた子供は乳母から母乳をもらえたが、庶民の場合は当然乳母など雇えるはずもなかった。
江戸時代初期までは、母親が出産で命を落としたり、母子ともに生きていても母乳が出なかったりすれば、早々に育てることを諦めて子供を捨ててしまうことが多かったという。

画像:徳川綱吉像(法隆寺蔵) public domain
しかし第5代将軍徳川綱吉の時代に発布された「生類憐みの令」で捨て子行為が禁じられてからは、そういうわけにもいかなくなった。
昔の人間に人の心がなかったわけではない。ただ捨て子=悪という社会通念自体が存在していなかったのだ。
また、自分たちでは育てられない子供なら、いっそ誰かに拾ってもらった方が幸せになれると、当時の貧しい親たちは信じていた。
だからこそ、生まれて間もない我が子を捨てることはできたとしても、目の前で子供が衰弱していく姿をただ眺めていることはできなかった。
必要な量の母乳を与えられなければ、子供はすぐに弱って死んでしまう。かといって育てられないことを理由に子供を捨てたことが発覚すれば、保護者が厳しい処罰を受けなければならなくなる。
そのため捨て子が厳しく禁じられた時代には、子供の命をつなぐ栄養源の確保は産んだ母親ではなく、社会的な責任を負う家長が担うものとなった。
そして庶民の間では、共同体ごとに母乳を融通しあうネットワークが作られていった。
子供に与える母乳が足りない時は、そのネットワークを通じて母乳が出る女性から「もらい乳」をしていたという。

画像:喜多川歌麿 「鮑とり 中」
母乳という言葉が一般的に使われるようになったのは大正時代頃からであり、それまで母乳は「人乳(じんにゅう)」や「女の乳(おんなのち)」と呼ばれ、誰の乳であるかは問題とされていなかった。
実母の乳にこだわっていたら子供を生かすことができなかったのだから、それも当然のことだろう。
もらい乳ができなかったり、足りなかった場合は、米のとぎ汁の上澄み液や動物の乳、米粉などの穀粉を煮溶かしたものを飲ませるしかなかった。
しかしそれでは乳児には消化が悪く、必要な栄養素もまったく足りていないので、母乳の売買が行われることも往々にしてあった。
母乳に価値が生まれたことにより、貧困にあえぐ下層階級の女性の中には母乳を売ることで生計を立てる者が出てくるようになった。
彼女たちは「乳持ち奉公」として、権力者の子に母乳を与える仕事に就いた。
もともと乳持ち奉公とは、出産後に我が子を亡くしたり、死産だったために母乳が出ても育てる子がいなくなった女性が、武家などの家に乳母として雇われる仕組みであった。
しかし、当時の母乳売買の闇はなかなかに深く、乳持ち奉公に出るために妊娠出産をして、生まれた我が子に母乳を与えず死に追いやる「ほし殺し」が行われたこともあったという。
明治時代以降の母乳事情と国産粉ミルクの登場

画像:弘田長 public domain
江戸時代が終わり明治時代に入ると、社会の産業化と近代化が急速に進み、夫は外で働き、育児は家庭を守る妻の役割とする考え方が主流となっていく。
そして西洋医学の導入により、実母が我が子に与える「母乳」の重要さも強調されるようになった。
授乳をはじめとする育児の方法を選ぶ役割は、家長から母親へと移っていき、もらい乳の風習はなお続いていたが、母乳の出が悪い母親は次第に大きな重圧を抱えるようになっていった。
我が子への授乳に苦労する母親や、出産で娘や妻を亡くした親族が求めたのは、母乳を与えてくれる他人ではなく、母乳の代わりとなる確かな栄養源だった。
明治時代には庶民の間でも「牛乳」を飲む文化が広まり、乳児にも代用品として牛乳に糖類を足した加糖練乳を飲ませるようになったが、品質や保存状態の悪さにより、乳児が死亡するケースが頻発していたという。
当時はまだ、日本の乳児の死亡率は欧米諸国の約2倍だった。
死亡率の高さの一因である乳幼児の栄養不足を改善するために、保存性が高い母乳代用品の開発と製造が求められるようになっていったのだ。
「粉ミルク」は1802年にロシアで発明され、1832年には商業生産も始まったが、日本で製造販売が始まったのは、それからおよそ80年後のことである。
日本で初めて育児用粉ミルクの開発に成功したのは、東京千代田区にあった和光堂薬局(現・和光堂)だ。
和光堂薬局の創設者は、昭和天皇の幼少期から青年期までの侍医を務めながら、国内初の小児科を創設した医師・弘田長(ひろた つかさ)である。
粉ミルクの開発には、弘田から和光堂の経営を引き継いだ初代社長・大賀彊二(おおがきょうじ)が直接携わった。
保存性が高い和光堂薬局の粉ミルクは反響を呼び、以後、様々な企業がより栄養価の高い粉ミルクの開発に乗り出した。
そして1920年代からは、国産外国産問わず様々な粉ミルクが市場に出回るようになったという。
もらい乳は昭和になっても続いていた

画像:軽部神社(岡山県総社市)の拝殿内部、乳房をかたどった絵馬が奉納されている。 wiki c Novcira
こうして大正時代に初の国産粉ミルクが販売されるようになったが、都市部以外では入手が難しく、価格も高かった。
さらに戦時中は乳製品自体の確保が困難となり、「乳児には母乳を飲ませるべきだ」という考えは根強く残り続けた。
多くの母親たちにとっては、乳児期の我が子を自らの母乳で育て上げることこそが、母としての誇りや自信を築くことにもつながっていた。
母親たちは乳の出を良くするといわれる食べ物を積極的に食べたり、お寺や神社に乳祈願に行ったりするなど、母乳に関する医学的知識が少ない中でも、乳の出を良くするために様々な努力と苦心を惜しまなかった。
それでも母乳が十分に出ない時はもらい乳のほか、牛乳やヤギ乳、重湯などを飲ませてしのいでいたという。
また、授乳中は月経が再開しにくいため、多産になりがちな農村部では避妊効果を得るために、母乳が出る限りできるだけ長く授乳を続けたというケースもあった。
母乳が多く出る女性にもらい乳をする風習も、1950年代までは一般的だった。
しかし1960年代以降、粉ミルクが普及するにつれて、もらい乳の習慣は次第に姿を消していき、1970年頃には粉ミルクを使った育児が一般的となり、一時は母乳よりも粉ミルクを選ぶ母親の方が多くなったという。
しかし1975年に厚生省が「母乳哺育推進」の方針を出してからは、母乳育児とミルク育児の割合はおおよそ半々で落ち着き、そのまま現在に至っている。
母乳神話に追い詰められない哺育

画像:pixabay
今では育児用ミルクの選択肢も増えて成分もより母乳に近付いているが、それでもやはり「母親が作り出す母乳が乳児に最適である」という通説に変わりはない。確かに人間も哺乳類の一種なのだから、それが最も自然な形であるとはいえる。
しかし、企業の100年以上にわたる研究と努力の末に生み出された育児用ミルクが、多くの乳幼児の成長を助け、離乳するまでの命の糧となっていることもまた、1つの事実である。
近年では「母乳神話」という言葉が取り沙汰され、母乳の出が悪いことで苦しむ母親も大勢いるが、今の日本では有用な選択肢がいくつも選べるのだから、自分や家族をあまり追い詰める必要はない。
母乳とミルクのどちらが優れているかではなく、どのような哺育方法が親子と家庭の事情に適しているかで考えられるようになれば、子育ての苦労も多少は和らぐだろう。
子供が乳児でいる時期は、過ぎてしまえば幻だったかのようにあっという間だ。
筆者自身が子育てにおいて後悔していることは、帝王切開やミルク育児による劣等感で、我が子の貴重な0歳時期の育児をろくに楽しめなかったことだ。どんなに後悔しようが、あの頃に戻ることはできない。
母乳が飲めずに多くの子供が命を落としていた時代を考えれば、様々な哺育方法が選べる時代に出産ができて、我が子がその子なりに元気に成長してくれるなら、それだけで御の字といえるのではないだろうか。
参考文献
沢山美果子 (著)『江戸の乳と子ども-いのちをつなぐ-』
板谷裕美、北川眞理子『人工栄養がなかった時代に子育てをした女性の母乳哺育体験に関する研究』
竹内喜美恵、松枝睦美『人工乳の歴史』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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