現代では朝・昼・晩の1日3食は当たり前ですが、この食事習慣が全国的に定着したのはつい最近、明治時代以降なのだそうです。
それまでは1日2食、中には1食という人たちもいました。
今回は、明治時代の慣用句や生活習慣をまとめた『さへづり草 一名・草籠』より、昔の食習慣について紹介したいと思います。
僧侶は1日1食

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〇佛家の一食
いにしへ僧家は一日一食也、按るに若き僧などは生ながら餓鬼道に落しごとおぼえて還俗する者多かりしによりてや、いつとなく夕飯食ふやうになりたるものなるべし、然はあれどもそのかみのおきてにもどれるを、老たる僧などの恥てや是を非時と號けたる也、そは食ふ時にあらざるの意なるべし、
【意訳】昔の僧侶は1日1食(朝食のみ)しか摂らなかった。しかし若い僧侶たちにとっては、生きながら餓鬼道に堕とされたようなもので、とても修行どころではない。それでいつしか1日2食(朝夕食)を摂るようになったという。しかし老僧らは原則に反することを恥じて、夕食を非時(ひじ)と名づけた。これは「本来ならば食う時≒食うべきでないもの」という意味である。
……1日1食は、どれだけ食い貯め(できたと)してもキツそうですね。
ましてや、食べ盛り育ち盛りの少年や青年にとっては、心身の成長を阻害してしまいかねません。
それが仏様の御心とも思えないし、ほどよく食事を摂るのがよいのではないでしょうか。
戦国時代までは1日2食

画像 : 北条氏康 public domain
〇朝夕二食
昔は今世のごとく貴賤ともに一日に三度食することなく朝夕二度の食也、そは武者物語に北條氏康公の嫡男氏政にの給ふ言葉の中に、「凡人間は高きもひきゝも一日に両度づゝの食なれば」と見えたり、又おあむ物語に「晝飯など食ふといふことは夢にもない事」と見えたり、又新武者物語に「人の食物は朝暮二合五勺づゝ」など見えしをもてもしるべし、按るに今世のごとく上下とも一日三度食するやうになりしは、いと近く明暦前後よりの事なるべし、慶長元和寛永の比までは正しく二食也、
【意訳】昔は身分の高い低いにかかわらず、1日に3食ではなく朝と夕の2食が基本でした。北条氏康は「身分の高低にかかわらず食事は日に二度」と説き、『おあむ物語』でも「昼飯を食うなど夢にも思わぬ」とのこと。そして『新武者物語』では「人間は朝夕に2.5合ずつ米を食えばよい」と伝えています。現代(明治時代後期)のように1日3食となったのは明暦(1655〜1658年)ごろと言われ、慶長から寛永(1596〜1644年)ごろまでは1日2食が基本でした。
……昼飯を食うなど夢にも思わぬ、とは、よほど忌むべきこととされていたのでしょう。
空腹を我慢できずに食糧を浪費するなということなのか、乱世が遠い昔となりつつある中で、ようやく1日3食の習慣が定着したのでした。
武士の食事は2.5合

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〇二合半
今世武家の賤き者どもの食事に二合半の名あり、これを物相飯又勿想盛相なども書り、又に合板のブンヌキなどもいふ、ブンヌキは打抜の訛か又分寒(ぶいぬく)にや、按るに二百年前までは貴賤ともに武家の食事二合半に定まりし也、そは右に引る新武者物語に「朝暮二合五勺づゝ」と見え、又室町殿日記に「二合半の食は武家の定まる處」とも見えたり、一人扶持五合といふ定りもすでに古かり、因にいふ葛飾郡に二合半と號す村名あるはいかなる義にや今考るところなし、
【意訳】武家の奉公人が摂る食事を「二合半」という。また物相飯(もっそうめし)・勿想盛合(もっそうもりあわせ)などとも書く。ほか合板(ごうはん)のブンヌキなどと呼ぶことがあり、打抜(ぶちぬき)や分寒(ぶいぬく)の訛りかも知れません。17世紀ごろまでは身分差にかかわらず、武士の食事は2.5合と決まっていたようです。一人あたりの日当が米5合という決まりも古くからありました。ところで葛飾郡に、二合半という名の村がありますが、これが武士の食事と関係があるのかは分かりません。
……物相飯とは精進料理で、型に詰めたご飯を押し出した(打ち抜いた)おにぎりの一種です。
転じて粗末な食事を指すこともあり、牢獄の食事などがそう呼ばれることもありました。
質実剛健を旨とする武士の食事は、物相飯で十分(でも量は大事)という気概があったのでしょう。
農工業者は1日3食

画像:百姓(農民)public domain
〇職人の三食
又按ずるにいにしへも農工の類の日々身體をはたらかす者どもは晝飯を食したるとおぼし、そは枕の草紙のたくみの物くふこそいとあやしけれといへる條にてもしらる、なほかの條の文をおもふに、大工等の中食くらふをめづらしげに見物せるさま、貴人の食の両度なることをも知るに足れり、又貞享四年印本籠耳といふものに、上略晝食食ふ事佛の御心に違ひたること也、されども大工屋根葺すべての職人、冬の短日といへどもきはめて晝めしを食ふ」下略とあり、貞享の比は大方今のごとく三度の食になりたらんが、なほ二食に近き世なればかく書るならむ、
【意訳】しかし昔から、農民や職人など日々身体を酷使する商売の人々については、昼食を当たり前に摂っていました。かつて『枕草子』に「職人が食事(特に昼食)を摂る姿は卑しく下品だ(意訳)」と書いています。
彼らは腹を空かせているので、さぞ貪り食っていたのでしょう。そんな職人を尻目に「我ら貴人は1日2食で十分だ」と満足したのでした。またある書物には「昼食を摂ることは仏様の御心に適わない」と書いていますが、現場ではそんなことを言っている余裕はありません。それで大工も屋根職人も、みんな揃って昼食を摂るのでした。
……昼飯を食うことが、そんなに悪いのか?と思ってしまいますね。
確かに、欲望のまま貪る行為こそ褒められたものではありませんが……。
にしても、誰のお陰でその建物に住めるのか、立派な伽藍で修行に励めるのかと思ってしまいますね。
1日4食の者たちも

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〇農人四食
今世農家に晝食と夕食とのあはひに又一食あり、これをコヂウハンとよべり、小中坊又小晝飯など書にや、これを合せて四食とはなりぬ、米搗をのこ等も又かくのごとし、いにしへの法師の四日の食也けり、これらはさして奢といふべきほどのことゝはなくて、いにしへにくらべてはこれ又一ツの夸(おごり)ともいふべし、いはむやその他の事をや、
【意訳】今どき(明治時代)の農家には、昼食と夕食の間にもう1食はさみ、これを小昼飯(こぢゅうはん。また小中坊)と呼びます。農家以外にも、米搗男(精米業)などもこの小昼飯を摂りました。古えの僧侶も1日4食摂ったそうですが、これらは貪欲という訳ではありません。これに引き換え、特に身体を酷使しない人の1日4食は貪欲と言うべきです。他のことについては、言うまでもないでしょう。
……現代で言えば「おやつ」でしょうか。ハードな仕事をこなすためには、適時の栄養補給が欠かせません。
ちなみに、古えの僧侶は1日1食じゃありませんでしたっけ?と思いましたが、これは過酷な修行を積む修験者などのイメージでしょうか。
※僧家は寺院に住む僧侶、法師は山野に起居する僧侶と書き分けているのかも知れません。
終わりに
今回は昔の食事回数について紹介してきました。全体的に飽食を戒めているようにも感じられますが、余計なお世話と思わなくもありませんね。
令和(2019年〜)の現代では、おおむね1日2〜3食摂っている方が多いと思います。1日何食であっても、その人が健康で幸せに暮らせる回数や頻度が良いのではないでしょうか。
※参考文献:
・藤原長房ほか『さへづり草 一名・草籠』国立国会図書館デジタルコレクション
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部
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