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漫才はいつ生まれた?平安からM-1まで続く日本の「笑い」の歴史

2025年12月21日、M-1グランプリ2025の決勝が行われ、たくろうが第21代王者に輝きました。

そもそも「漫才」とは、どのような歴史を持つ芸能なのでしょうか。
二人の芸人が舞台に立ち、言葉のやりとりで客を笑わせるという形式は、いつ、どのようにして生まれたのか。

その起源をたどると、千年以上前の歴史に行き着きます。

今回は、日本人を魅了する漫才の歴史を振り返っていきたいと思います。

祝福芸「万歳」から寄席芸へ

画像:千秋万歳の様子を描いた絵巻 public domain

漫才の原型は平安時代に遡るとされ、その源流の一つが「千秋万歳(せんずまんざい)」と呼ばれる芸能です。

千秋万歳とは、正月に家々を訪ね、新年を祝う言葉や舞を披露する門付け芸でした。
「千秋」は千年、「万歳」は万年を意味し、家の繁栄と長寿を祈る祝福の芸能として各地に広まっていきます。

芸人たちは烏帽子や素襖といった装束を身にまとい、扇を手に舞いながらめでたい文句を唱えました。

注目すべきは、この段階で二人組の構造がすでにあったことです。

「太夫(たゆう)」と「才蔵(さいぞう)」という役割分担が存在し、太夫が祝いの言葉を述べ、才蔵が鼓を打ちながら合いの手を入れ、片方が話し、もう片方が受ける。
現代の漫才における「ボケ」と「ツッコミ」に通じる構造を、ここに見ることができます。

江戸時代になると、万歳は各地で独自の発展を遂げました。
その中でも三河万歳は名高く、徳川家康の出身地という背景もあって、江戸の町でも広く受け入れられていきました。

正月に町を回り、門前で芸を見せる姿は、新春の風物詩として親しまれたのです。

ただし、この段階ではまだ「笑い」が主目的ではなく、あくまで「祝福」が第一であり、滑稽なやりとりは副次的なものにすぎませんでした。

転機は明治時代に訪れます。

門付け芸としての万歳が衰退する一方、大阪の寄席で演じられる万歳が人気を集めるようになりました。

玉子屋円辰や砂川捨丸といった芸人たちが登場し、祝福を本義としていた万歳は、次第に二人の掛け合いによって笑いを生み出す芸へと性格を変えていきました。

芸能の性格が、祝福から娯楽へと移り変わっていったのです。

しゃべくり漫才の誕生

画像:左が花菱アチャコ、右が横山エンタツ public domain

明治から大正にかけての万歳は、まだ鳴り物(三味線や鼓)を伴うのが一般的でした。

音曲と掛け合いが一体となった芸能であり、現代の漫才とはかなり趣が異なります。

才蔵が三味線を弾き、太夫が歌いながら滑稽な話を織り交ぜる。笑いはあくまで音曲の合間に生まれるものでした。

この流れを根本から変えたのが、横山エンタツ・花菱アチャコのコンビです。

1930年代、エンタツとアチャコは画期的なスタイルを打ち出しました。

鳴り物を一切使わず、会話だけで客を笑わせるという「しゃべくり漫才」の誕生です。

二人は背広姿で舞台に立ち、まるで友人同士が雑談しているかのように軽妙なやりとりを繰り広げました。

二人の代表的なネタに「早慶戦」があります。

野球の話題を軸に、エンタツがボケ、アチャコがツッコむ。テンポのよい掛け合いが笑いを生む構成でした。

楽器や踊りもなく、言葉のリズムと間だけで勝負する。当時としては新しい試みだったといえます。

このようなスタイルが広まった背景には、ラジオなど新しいメディアの登場もありました。
音だけで伝わる番組では、会話の間合いや言葉のリズムが強みになります。

鳴り物に頼らず会話で成立するしゃべくり漫才は、そうした媒体とも相性がよく、エンタツ・アチャコの名は放送やレコードを通じて全国に広がっていきました。

また興味深いのは、この時期に「漫才」という表記が広まっていくことです。

1933年、吉本興業が「萬才」に代えて「漫才」の字を用い始め、翌年には興行の呼び名としても定着していきました。

「漫」には「とりとめのない」「気ままな」という意味があります。
祝福芸から自由な話芸へという性格の変化を、こうした字面が象徴しているといえるでしょう。

エンタツ・アチャコの成功により、しゃべくり漫才は大阪の寄席で主流となりました。

以後、漫才といえば「二人が舞台に立ち、会話で笑わせる芸」という認識が広まっていきます。

漫才が話芸として自立を果たした瞬間でした。

テレビと漫才ブーム

画像:漫才ブームを後押ししたテレビ イメージ

戦後、漫才は劇場を中心に発展を続けました。

しかし全国的な認知を得るには、もう一つの転機が必要となります。

それがテレビの普及です。

1980年、フジテレビで『THE MANZAI』が放送されます。

ツービート、B&B、紳助・竜介といったコンビが出演し、漫才ブームが到来しました。

それまで劇場に足を運ばなければ見られなかった漫才が、茶の間へ届くようになり、漫才は大阪のローカルな芸能から、日本中で共有される娯楽へと姿を変えました。

ブームは数年で沈静化しましたが、漫才師(芸人)という職業が広く認知され、若者たちの憧れの対象となります。

このあと漫才の世界へ入っていく多くの芸人が、この時期のテレビ番組を見て「自分もやりたい」と思ったと語っています。

M-1グランプリが開いた時代

2001年、新たな転機が訪れます。M-1グランプリの創設です。

このコンテストには「結成10年以内」という出場条件が設けられていました(2015年の復活以降は「結成15年以内」に変更)。

ベテランも若手も同じ土俵で戦う従来の賞レースとは異なり、若手漫才師に特化した大会として設計されたのです。

M-1がもたらした変化は多岐にわたります。

まず、漫才師を目指す若者にとって明確な目標ができました。優勝すれば一夜にして全国区の知名度を得られるシステムが、多くの才能を漫才の世界へ引き寄せていきました。

平安時代の千秋万歳から、エンタツ・アチャコのしゃべくり漫才、テレビの漫才ブームを経て、M-1グランプリの舞台へ。

千年以上の時を経て、漫才は形を変えながら、これからも続いていくでしょう。

参考文献:
前田勇(1975)『上方まんざい八百年史』杉本書店
富岡多恵子(2001)『漫才作者 秋田實』平凡社
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

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村上俊樹

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