首実検(くびじっけん)とは、昔の日本の戦において武士が討ち取った敵の首級を持ち帰り、その身元を大将が確認し、論功行賞の判定材料にするために行われた作業である。
今ではとても残酷で考えられないことだが、当時は敵の首級をあげて首実検を行うことは非常に重要な儀式であった。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」においても源頼朝を演ずる大泉洋が、源義経の首実検を行ったシーンが放送され大きな話題となった。
それでは首実検は実際にどのように行われていたのだろうか?
首実検の儀式や作法
首実検は平安時代の末期頃から始まったとされている。
ただ首を確認するだけではなく、しっかりとした儀式や作法があり、室町時代以降に形式化されていったという。
儀式や作法が用いられたのは大将クラスや貴人の首であり、雑兵たちの首はまとめて並べられるなど雑に扱われていた。
敵の大将や貴人の検分は対面、雑兵らの検分は見知といい、呼び方まで違っていたのである。
しっかりと化粧した
討ち取られた首は、水で血や土などを綺麗に洗い流して、髪をとき、髻を高く結い直し、米の粉などをふりかけて薄化粧を施し、綺麗に整えられた。
討ち取った敵方の武将に対して、しっかりと敬意を払っていたのである。
また、当時の武士たちは自分がいつ討ち取られても良いように、常に身だしなみには気を使っていた。
戦国時代の貴公子と呼ばれた木村重成(享年23)は、大坂夏の陣で討ち取られたが、月代を剃って髪を整え、頭髪はお香の良い香りが漂っていたという。
これを見た家康は「討死を覚悟して挑んだ稀世の若武者」と重成を称賛している。
首の見方
首実検を行う際にも様々な作法があった。一例を上げると
実検の時には、床机をはずし、立って弓杖をつき、右手を太刀の柄にかけすこし太刀を抜きかけ、敵に向かうこころで右の方へ顔を外向け、左の目尻でただ一目見て、抜きかけの太刀をおさめ、弓を右手にとって弓杖につき、左手で扇を開き、昼ならば日の方を、夜ならば月を外にして左扇をつかう。首は一目で、二目とは見ない。真正面からは見ず、尻目にかける。太刀を従者にもたせるならば、左側に太刀の柄に手をかけすこし抜きかけて立たせる
ただ見るというわけではなく、太刀を抜きかけた状態で左目の目尻で一目見るとか、首の持ち方や扱う道具など、様々な作法があったようである。
いつ敵が首を奪還しに来るかわからない戦場において、毎回きっちりやっていたかは不明であるが、首実検は諸流あれど敬意を持って行われていたようである。
首実検は主に寺院で行われ、首の披露役の武将が大将や立会人の前で誰の首であるかを読み上げ、討ち取った本人はどのようにして討ち取ったかの経緯などを語ったという。その際は現場を見ていた証人を伴うこともあった。
また、討ち取った敵の首が本人であるか確認するために、捕虜になった敵方の武将や寝返った武将、顔を知っている味方武将に見せることも多かった。
夏期においてはどうしても損傷が激しくなるため、軍監による確認に止め、大将には見せない場合もあったという。
首の表情で吉凶を占っていた
首実検では、主に首の目線によって吉凶も占われていた。
右眼(右方向を見ている)※味方にとって吉
左眼(左方向を見ている)※味方にとって不吉
天眼(上目になっている)※凶だが武田家では吉
地眼(↓方向を見ている)※吉だが武田家では凶
仏眼(両目が閉じられている)※穏やかな死に顔は吉
片眼(片方だけ眼が開いている)※どちらか片目のみ閉じているのは大凶
片眼で歯噛み(片目(特に左目)で歯をくいしばっている)※最たる凶相
このように、首の表情によって今後の吉兆が占われることもあった。
このように首実検は今では考えられない残酷な習慣であったが、勝者は敗者に対して敬意を払い、首塚を設けるなど手厚く葬り供養するのも常だったのである。
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