2代目が優秀なら武家政権は安定する
武家が政治の表舞台に立った政権としては、平安末期の平氏政権、鎌倉時代の源氏政権・北条政権、室町時代の足利政権、桃山時代の豊臣政権、江戸時代の徳川政権が挙げられる。
この内、長く続いた政権は、鎌倉時代の北条政権・室町時代の足利政権・江戸時代の徳川政権の3政権だ。
この3政権には、共通項があるのをご存じだろうか。それは、どの政権も2代目が優秀であったということだ。
ただ、この3政権の2代目たち、歴史上大きな役割を果たしたにもかかわらず、実は初代・3代と比べると、歴史的評価があまり高くなく、知名度が低く、地味な存在なのだ。
今回は、優秀なのになぜか地味な存在の鎌倉・室町・江戸幕府の2代目、北条義時(ほうじょうよしとき)・足利義詮(あしかがよしあきら)・徳川秀忠(とくがわひでただ)を紹介しよう。
鎌倉政権を盤石にした北条義時
昨年大ヒットした大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公で、一躍、時の人となった北条義時。
しかし、最初の武家法である御成敗式目を制定した、子供の3代執権北条泰時と比べると、教科書ではその事績はほとんど触れられていない。
義時が執権在任時の大事件は、1221年に起きた承久の乱だ。後鳥羽上皇が発した「義時追討の院宣」で幕府は動揺するが、義時は、逆に朝廷を返り討ちにした。そして、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇を配流、関東の一地方政権であった鎌倉幕府を全国区に押し上げた。
また、北条氏のライバルである比企氏・畠山氏・和田氏などの有力御家人たちを次々に排除。鎌倉幕府と北条得宗家の政権確立を成し遂げ、幕府権力を盤石なものとした大功労者なのだ。
室町幕府全盛期の礎を築いた足利義詮
画像 : 足利義詮像(『古画類聚』)wiki c地味と言えば室町幕府2代将軍足利義詮ほど、この言葉がぴったりな人はいないだろう。余りにも地味過ぎて、教科書にはその名前すら記されていない。息子の3代将軍足利義満が、北山文化・勘合貿易・南北朝合一と、華やかすぎるほどの功績を記されているのとは、全く正反対の人物である。
室町幕府は、成立期において不安定この上ない政権だった。後醍醐天皇が吉野に逃れ南朝を開き、南北朝の内乱が起こり、それに、初代将軍足利尊氏と弟・直義の抗争が絡み、全国規模の観応の擾乱に発展していく。
そんな中、尊氏が死去する。幕府の有力武将である二木氏・細川氏・畠山氏が離反し、京都は南朝に奪われた。普通なら、ここで室町幕府は終わっていた可能性があった。しかし、ここから義詮が優れた資質を発揮する。
義詮はこの危機に際し、将軍独裁の裁判制度・管領の設置など、室町幕府の内政強化を図った。その上で、徐々に南朝勢力の切り崩しを行い、それが次代の義満による南北朝合一に繋がっていった。
その生涯を戦いに明け暮れた義詮は、38歳の若さでこの世を去った。だがその功績は、室町幕府全盛への礎を築いたのだった。
徳川260年の土台を構築した徳川秀忠
江戸幕府を開いた徳川家康の三男として生まれ、2代将軍となった徳川秀忠。この人も、父の徳川家康、息子の3代将軍徳川家光と比べると、やはり地味な存在と言わざるを得ない。
しかも、関ケ原の合戦に間に合わず、家康に叱責されるという残念なエピソードが知れ渡り、軍下手な武将というレッテルを貼られ、ダメ将軍とさえ言われる始末だ。
ただ秀忠は、そうした失敗を覆すほどの、政治家として優れた資質を持っていた。家康との共同作業とはいえ、江戸幕府の政権安定の屋台骨ともいえる武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定したのは秀忠だった。
さらに秀忠は、駿府にいる家康が行う大御所政治と上手に折り合いをつけた。将軍として独裁を振るわず、幕府権力を盤石にするため、家康に協力して政権を運営するシステムを実践した。
秀忠は、家康の期待に応え、内政強化に努め、江戸幕府の基盤を強固なものにした。江戸幕府が、260年にわたる長期政権を成し遂げたのは、秀忠の力と言っても過言ではないだろう。
2代目が優秀ならば、武家政権は安定する。現代の企業でも2代目が会社を潰すという事実が多いはず。
しかし、2代目が創業者の事績を引継ぎ、さらに業績を充実させれば、その企業は盤石の体制を固めることができる。
もっと公平な目で、北条義時・足利義詮・徳川秀忠を評価し、歴史の表舞台に引き上げるべきなのではないだろうか。
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