
画像:ヤマトタチバナの花 wiki c 鳥羽商工会議所
「このイモムシを神として祀れば、貧乏人は金持ちになり、老人はみるみるうちに若返る。」
現代社会でこのように説かれて、その話をまるまる信用してしまう人はどれだけいるのだろうか。
「そんな話、信じる人間がいるわけがない」と笑う人もいるかもしれない。
しかし、このただのイモムシを崇める宗教が、飛鳥時代の日本で、都と地方にまで広がる騒動を引き起こしたのである。
今から約1300年前の日本では、まだ仏教は大陸から伝来したばかりで、人々は土地ごとに様々な神を祀っており、信仰のまとまりがない状態であった。
イモムシ教団を興した教祖は、信者が喜捨した財産で私腹を肥やし、貧しくなっていく信者の生活と反比例して裕福になっていったという。
今回は『日本書紀』に記されている、対応が遅れていれば社会秩序に深刻な影響を及ぼしていたかもしれない古代の新興宗教「イモムシ教団」について触れていきたい。
イモムシ教団が隆盛した背景

画像:皇極天皇 (斉明天皇) public domain
まず、なぜイモムシ教団が勢力を拡大していったのか見ていきたい。
それは飛鳥時代の平民の生活が、決して豊かではなかったことが一因だと言えるだろう。
イモムシ教団が始まったのは西暦644年(皇極天皇3年)で、日本史上では乙巳の変、及び大化の改新の前年にあたる。
この時代、庶民は弥生時代から変わらない粗末な服を着て、竪穴式住居に住み、食事は玄米と塩にワカメの汁物といった質素な内容だった。
しかし権力や財産を持つ豪族や役人は、色彩豊かな衣装を着て柱や瓦を使った立派な館に住み、玄米と塩、汁物に加えて魚や野菜の漬物を食べ、酒も常飲していた。
日本の中央集権化や文明の大きな変化は飛鳥時代に起きたが、政治はまだまだ安定しておらず、ごく一部の上流階級だけがその恩恵を享受し、大半の貧しき農民は日々の食事すらままならない状態だった。
この目に見えて分かる貧富の差と安定しない暮らしは、貧しさに疲弊する人々の心をより一層に曇らせた。
そこに燦然と登場した新興宗教こそが、教祖・大生部 多(おおうべ の おお)が興した、イモムシ教団だったのだ。
寄進を集め栄華を極めたイモムシ教団

画像:富士川 public domain
644年皇極天皇3年、東国の富士川(現在の山梨・静岡県を流れる河川)の辺りの出身である大生部多(おおうべのおお)は、タチバナやイヌザンショウにつく蚕に似た、体長約12cmほどにもなる大きな緑色のイモムシを「常世神(とこよのかみ)」であると称した。
そして「このイモムシを神として祀れば、富と若さが手に入る」と吹聴して新興宗教を興し、大勢の信者を集めていた。
この多という人物の名代「大生部」とは、一説によるとヤマト王権の職業部の内、皇子や皇女の養育に携わる役人とその封民である壬生部(みぶべ、乳部とも)の1つで、そのほとんどが静岡の田方郡を拠点にしていたとされる。
「常世神」は日本で古くから信仰されていたある種の理想郷「常世の国」の神であり、タチバナの実は「常世の国」で採れる不老不死の効能を持った「時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)」と同一と考えられていた。
だからこそ多は、不老不死や理想郷を象徴するタチバナの木につく幼虫を、不老不死と富をもたらす「常世神」として、祀り上げたのである。

画像 : 常世神(イモムシ)を祀る儀礼の想像図(※イモムシは誇張表現) 草の実堂作成(AI)
古くからの信仰に根差した多の教えを、信じる者は少なからず存在した。
やがて多の教えを信じて家財を差し出した信者の中から、偶然にも病気が治った者や富を得た者が現れる。
多はこのごくわずかな成功者を持ち上げて、「イモムシを祀って財産を喜捨すれば、どんな願いも叶う」と触れ回り、さらに信者を増やしていった。
イモムシ教団の規模はどんどん大きくなり、多に仕える巫覡(かんなぎ)が常世神の託宣を偽り、信者はより信仰を深めた。
道端には寄進された食べ物や酒が並べられ、信者に「新たな富が入ってきた」と騒がせた。
さらにパフォーマンスとして、多は祭壇に祀られたイモムシに祈りを捧げ、その周りに美しい衣を着た女たちを舞わせた。
人々はそれを見て「神であるイモムシを祀り、教団に喜捨すればどんな願いも叶う」という根拠のない教えを信じ込み、さらに多に財産を寄進する。
しかしごく一部の偶然に幸運を手にした人々を除いて、信者は手元に残ったわずかな財産さえ喜捨するよう求められたため、人々はさらに貧しくなり、逆に多は豊かになっていった。
そして東国で始まったイモムシ信仰は、やがて奈良の都にまで広がり、朝廷の耳にも届くまでになった。
イモムシ教団を叩き斬った秦河勝

画像:秦河勝(はたのかわかつ) public domain
イモムシ教団の信者となった人々は、必死に働くことを止め、日々をイモムシへの祈りに捧げ、自らの手に入ることのない富と若さを求め続けた。
しかしイモムシ教団が大きくなり過ぎたうえに、人々が労働や経済活動を止めてしまったことは、教祖である大生部多の不運の始まりであった。
人々の財を奪って私腹を肥やす多を、問題視する人物が現れたのだ。
それが、山城国葛野郡太秦(現在の京都市右京区太秦)に本拠を置く、秦河勝(はた かわかつ)だった。
渡来系氏族である秦氏の族長だった河勝は、イモムシ教団が起こした騒動を鎮圧するために教団の本拠地を訪ねた。
多は朝廷の重臣である秦河勝が訪ねてくることを知ると「さらに教団を拡大する好機だ」と考え、河勝の来訪を心待ちにしていたという。
しかし河勝は「妄言で民衆を惑わして自らだけ利益を得て、国に騒乱を起こす者」として一刀両断し、さらには常世神として祭壇に祀られていたイモムシも叩き斬った。
この河勝のイモムシ教団討伐は讃えられ、
太秦は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲ますも
意訳:秦河勝は、神の中の神と言われている。なにせあの常世の神を、打ち懲らしめたのだから
と和歌にも詠われた。
一説には、河勝が多の討伐を担ったのは、秦氏が上宮王家が所有する壬生部、つまりは多の名代である大生部の管理を行っていた一族だからだと考えられている。
さらに渡来系の一族である秦氏は、古来より語り継がれる日本の神とは異なる神を信仰していた。
そのため日本古来の「常世神」とされた教団を討伐することにも、恐れを抱かなかったのではないかともされている。
カルト宗教の恐ろしさ

画像:地下鉄サリン事件(1995年)警察庁 CC BY 4.0
今の世の中で、イモムシを神として崇めれば願いが叶うなどと聞いて、信用する人はほとんどいないだろう。
しかし、日本では宗教に対する規制が比較的緩やかなこともあり、新興宗教が次々と生まれ、ときに社会に大きな混乱や事件を引き起こしてきた。
人間の本質は、1300年以上の時を経ても大きくは変わらない。
豊かで幸せそうな人を見れば羨望を抱き、理不尽な不幸が降りかかれば、目に見えない何かに救いを求めたくなるのが人の心である。
日本には信教の自由があり、他者の信仰そのものを嘲るべきではないが、かつてのイモムシ信仰に熱狂した人々の姿は、ある種の示唆を残しているといえるだろう。
参考 :
丘 眞奈美 (著) 『京都奇才物語』
衣川真澄 (著) 『古代の謎・二十の仮説《後編》―飛鳥時代を正しく理解し直す―』
紀藤 正樹 (著)『カルト宗教』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
























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