中臣鎌足とは
飛鳥時代の645年、ヤマト政権で天皇をも凌ぐ権勢を誇っていた大豪族の蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺された「乙巳の変(いっしのへん)」という一大事件が起きた。
この政変の重要な鍵を握っていた人物が、中臣鎌足(なかとみのかまたり)である。
翌年から始まった「大化の改新」で天皇を中心とした新しい国づくりに協力したことで、鎌足はその死の直前に天皇から「藤原」という姓を与えられた。
その後、鎌足の子孫である藤原氏は摂政・関白として、歴代天皇の側で長く政治を担っていくことになる。
「藤原氏の祖」である中臣鎌足とは一体どのような人物であったのか? 前編後編にわたって解説する。
出自
鎌足は、大和国高市郡(現在の奈良県橿原市)で614年、中級の豪族である中臣氏の一族である父・中臣御食子と母・大伴智仙娘の長男として生まれた。
※出生地には大和国高市郡説の他、大和国大原(現在の奈良県明日香村)説、常陸国鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)とする説もある。
初期は中臣鎌子と名乗っていたが、その後「中臣鎌足」に改名した。
鎌足の生まれについては伝説があり、鎌倉時代に書かれた「多武峯縁起」にはこう書かれている。
ある夜、鎌足の母・大伴智仙娘が眠りにつくと股の間から藤の木が生え、そのツルが国中に広がって花を咲かせるという不思議な夢を見た。
そして目が覚めると男の子を身籠っており、12か月後に生まれたのが鎌足であった。更に、赤ん坊の鎌足の枕元に白いキツネがやって来た。
鎌足を腹の上に乗せてまじないを唱え、藤のツルが巻き付いた鎌を与えて「お前は天子の師範となった後、この鎌で蘇我の大臣(おとど)という悪人の首をはねて天下を平らげ大臣の職に上り詰め、天子に法を授けることになるであろう」と告げた。
これらは後世に創作された逸話で、藤原氏のカリスマ性を高めるために作られたと思われる話である。
鎌足の生家・中臣氏は朝廷の神事や祭祀を司る家柄で、朝廷を支える中級豪族であった。
神と人、神と天皇の間を取り持つことから「中臣」という氏名(うじな)が生まれた。
鎌足は神祇官(しんぎかん)になるべく生まれた子供であり、生まれつき体が大きく容姿端麗で、人柄は思いやりが深く親をとても大切にし、思考力が鋭く先見の明がある人物であったという。
鎌足は幼い頃から学問僧・旻(みん)の塾に通っており、若かりし蘇我入鹿も同じ塾に通っていた。
旻は「私の仏堂に出入りする者で蘇我入鹿に及ぶ者はいないが、ただ一人、鎌足だけは精神と意識において優れた相があり、入鹿に優るとも劣らない」と言ったという。
そんな鎌足には、当時絶大な権勢を誇っていた蘇我入鹿も一目を置いていた。
歴史の表舞台へ
622年、推古天皇のもとで摂政を努めていた厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。
その死によって大豪族である蘇我氏宗本家を抑える者がいなくなり、蘇我氏の権勢は天皇家を凌ぐほどになっていた。
厩戸皇子と共に力があった蘇我馬子が亡くなり、その子・蝦夷が代わって大臣となり、次期皇位に自分が推す田村皇子を即位させ、第34代の舒明天皇となった。
舒明天皇が崩御した後、第35代の天皇に即位したのは舒明天皇の皇后であった皇極天皇であった。
蘇我蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ずに紫冠を息子・入鹿に授け大臣とし、次男を物部大臣とした。
そして、皇極天皇が皇位を退く意思を見せると、先の舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子と皇極天皇の弟である軽皇子が次の皇位を争うことになる。
皇位継承問題の中で優勢だったのは、蘇我氏宗本家と姻戚関係にあった古人大兄皇子であった。
軽皇子はこの頃、すでに40代になっていたこともありとても焦っていた。
この好機を逃せばもう自分は天皇になることは絶対にないと思ったからである。
そこで、軽皇子は古人大兄皇子の後ろ盾である蘇我氏を滅亡すれば自分が優位に立てるとして蘇我氏暗殺計画を目論んだ。
鎌足は軽皇子とは以前から親しい仲であり、軽皇子から寵愛されていた臣下(主従関係)であった。
鎌足も軽皇子の即位を願っていたため、主君の望みを叶えようと蘇我氏暗殺計画に加わったのである。
実はこの他にもう一つ理由があった。
蘇我氏宗本家である蝦夷・入鹿親子は、こともあろうに天皇の宮中の上に屋敷を建てその下にある天皇の宮中を見下ろし、更に先祖を祀る霊廟で天皇の儀式の際にのみ行われる「八つからの舞」を舞い踊らせるなど、天皇をないがしろにするような越権行為を重ねていたのである。
目に余る蘇我氏の行為に、鎌足は「これでは王室が衰退し、政が大王(天皇)に拠らなくなり、このままでは駄目だ」と考え、暗殺計画に乗ったのである。
しかし、相手は巨大な力を持つ蘇我氏、万全を期すために共に計画を進めてくれる人物を探した鎌足は「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」が適任者であると思った。
鎌足と中大兄皇子には接点がなかったのだが、たまたま蹴鞠の会で中大兄皇子と知り合いになり、二人は仲が良くなったのである。
鎌足は中大兄皇子に蘇我氏暗殺計画を打ち明け、力を貸してくれるように頼んだ。
中大兄皇子は軽皇子を天皇に即位させた方が、将来自分が天皇になりやすいと考え、鎌足の計画に乗ることになった。
暗躍する鎌足
鎌足は中大兄皇子と共に、殺害を実行するメンバーを密かに集めていた。
最初に目をつけたのは入鹿の従兄弟でありながら、入鹿と不仲であった「蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)」だった。
入鹿の身内である人物をメンバーに入れることで計画が進みやすくなると考えたのである。
鎌足は中大兄皇子に「石川麻呂は意志が強く勇敢で威光と人望も高いものがある。もし、石川麻呂の賛同を得ることができたのなら、謀(はかりごと)は必ずや成功するに違いない。そこで皇子が石川麻呂と姻戚となり、その後、肝心要の戦略を実行に移したいと思う」と進言した。
石川麻呂の娘を娶り、関係を密にしてから石川麻呂を仲間に引き入れようという鎌足の策に、中大兄皇子は同意する。
石川麻呂も中大兄皇子と姻戚関係を結べば家の格が上がると考え、この縁談話に乗って来た。
すぐに石川麻呂の長女・姪姫を嫁がせることに決めたが、問題が起きる。嫁入りの行列を迎えようとする時に、石川麻呂の弟・蘇我日向がなんと花嫁を連れ去ってしまったのである。
当然、花嫁を連れ去られた石川麻呂は「中大兄皇子がお怒りに違いない」と慌てるが、その父の様子を見ていた次女・遠智娘が「私が参ります」と身を挺したことで、長女に代わって次女が嫁ぐことになった。
しかし、中大兄皇子は長女を奪って行った蘇我日向への怒りが収まらず、蘇我日向を討伐しようとした。
それを知った鎌足は、中大兄皇子に「すでに国家に関する重要な謀を決めたにも関わらず・どうして家中の些細な過失にお怒りになるのか」と諭した。
この言葉に中大兄皇子は蘇我日向討伐を思い留まった。
その後、計画通り石川麻呂を仲間に引き入れることに成功する。
次に鎌足は蘇我氏殺害の刺客として、宮殿の護衛を担当していた腕の立つ「佐伯子麻呂(さえきのこまろ)」と「葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)」を取り込んだ。
この頃、鎌足は神祇官の長官である「神祇伯 : じんぎはく」に任じられるが、なんとこの出世人事を辞退した。
鎌足は中臣氏の神祇官という代々の職務を拒んだということになる。
鎌足は神祇官よりも、官僚として中央集権的な国家づくりに参加するという道を選んだのだ。
そしてついに、蘇我入鹿暗殺計画を実行することとなる。
後編 : 「藤原氏の祖」となった中臣鎌足 ②【乙巳の変と大化の改新】
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