推古天皇とは
推古天皇(すいこてんのう : 554~628)は、日本で初めての女性天皇であり、東アジアの国々の中でも初めての女帝であると言われている。
聖徳太子とともに二頭政治を行ったことで有名であるが、推古天皇自身が主役になる機会はさほど多くない。
今回は、そんな推古天皇の生涯や、人となりについて紹介していきたい。
炊屋姫から推古天皇へ
推古天皇は、554年、欽明天皇(きんめいてんのう)とその妻である蘇我監塩媛(そがのきたしひめ)との間に生まれた皇女のひとりであり、皇女時代には 炊屋媛 (かしきやひめ)と呼ばれていた。(この記事では、推古天皇と統一する)
母である蘇我監塩媛は、当時有力豪族として権威をふるっていた蘇我稲目の娘であり、推古天皇には蘇我氏の血脈が流れている。
557年、推古天皇17歳の時に、異母兄である敏達天皇(びだつてんのう)と結婚をした。
当時は、母を同じとする兄弟姉妹間の結婚は禁止されていたが、異母だった場合の結婚はさほど珍しいことではなく、むしろ、身分の高い人々の間ではごく一般的なこととされていた。
夫・敏達天皇との間に7子を設けるも、敏達天皇は推古天皇が31歳の時に死去、ここで次の天皇を誰にするのか、という問題が発生する。
敏達天皇の兄弟たちは次の天皇の座を巡って争い始め、ついには蘇我馬子(そがのうまこ)などが関わり殺害事件にまで発展してしまう。
そんな中、蘇我馬子は、姪である推古天皇に目をつける。
彼女の身分の高さはもちろんのこと、推古天皇は非常に聡明な女性としても有名だったため、天皇としての座にふさわしいと考えたのである(なおかつ、蘇我馬子にとっては実の姪であるため、実権を握りやすいと思ったのだろう)。
推古天皇も、いずれは自分の長男である竹田皇子を即位させたいを考えており、自分は次の天皇が即位するまでの“中継ぎ”として、即位することを決めたのである。
「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」
推古天皇は、非常に聡明であったというだけではなく、美しい女性としても有名であった。
『日本書紀』には、推古天皇について「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」と記されている。
現代語訳すれば、“輝くような美人”と言ったところだろうか。
このことは、一夫多妻制が一般的だった当時にもかかわらず、亡き夫の敏達天皇が、推古天皇との間に5男2女をもうけたということからも、天皇の寵愛を深く受けており、美しい容姿を持っていたということがわかるだろう。
また、推古天皇の母・監塩媛も、欽明天皇との間に13子を設けており、天皇から深く愛されていたということがうかがえる。
親子揃って、聡明でしかも美しい女性であったということが考えられるだろう。
アメタリシコという別名
無事に天皇として即位した推古天皇だが、彼女にとって思いがけないことが起きる。
次の天皇に…と期待を寄せていた長男、竹田皇子が急死してしまうのである。
竹田皇子の急死の時期ははっきりとしていないが、おそらく推古天皇が即位した直後であると思われる。
こうして、593年に、推古天皇の甥である 厩戸皇子(聖徳太子)が摂政に任命され、推古天皇とともに二頭政治を行うことになる。
摂政とは、天皇が女性や子どもの場合、それに代わって政治を行う役目の人物のことを指す。
しかし推古天皇は自ら政治を行うことも多く、いずれ皇位を継ぐであろう厩戸皇子に対し、社会勉強のような感覚で摂政の役目を務めさせていたと考えされており、平安時代の藤原氏のような、名ばかりの天皇の代わりに政権を牛耳るようなやり方とは大きく異なっていたという。
推古天皇は、厩戸皇子とともに
・十七条の憲法の制定
・冠位十二階の導入
・新田などの開発
など、天皇を中心とした国の体系を整理したり、遣隋使制度を再開させたりと、画期的な手腕をふるってゆく。
ここで登場するのが アメタリシヒコ という別名である。
「『隋書』倭国伝」の中には、600年頃に登場する倭王の名は“アメタリシヒコ”と記されている。
600年と言えば、まさに推古天皇が即位していた頃であるが、どうして男性名である“アメタリシヒコ”という名前が記されていたのだろうか。
これは、当時「女性を君主に建てるのは、野蛮な文化である」と考えられていた隋との外交で不利にならないために、推古天皇が使用していた偽名ではないかと考えられてる。
おそらく、隋からの使者がやってきた場合には、厩戸皇子などが天皇として応対していたのだろう。
推古天皇の晩年
やがて、厩戸皇子が病死すると、推古天皇は多いに落胆する。
そんな折、叔父である蘇我馬子が推古天皇に「厩戸皇子の亡き今、天皇の直轄地である葛城県を私に譲渡してもらおう」と言い寄ってくる。
推古天皇はすぐさま怒り、「今までは叔父のあなたの言うことを同じ血族がゆえに聞き入れておりました。ですが、ここであなたの言いなりになれば、私は後世まで無能な女帝であったと言われてしまうことでしょう。それにあなたも忠誠心の欠けた無能な臣下として、悪名を残すことになりますよ」と、蘇我馬子に言い放ったのだと言う。
蘇我馬子は女帝の言葉に、すごすごと引き下がることしかできなかった。
やがて626年に蘇我馬子が亡くなると、その2年後、推古天皇は72歳の生涯を閉じた。
彼女の亡きがらは、早くして亡くなった息子、竹田皇子と同じ墓に葬られたという。
自分の死後、再び後継争いが起こることを危惧した推古天皇は、敢えて後継者の名言は避け、現在国民が不作で困っていることを心配し、自分の死後は御陵(身分の高い人のための墓)を新たに作ることはしないように、と指示したという。
死の間際までひとりの君主として、国民を想い、死んでいった女傑の生涯であった。
この記事へのコメントはありません。