エピローグ
今を遡ることおおよそ1,200年前に完成したという『万葉集』は、4,500首以上の和歌を収録する日本最古の歌集です。
時代は奈良時代末期。当時日本にはまだ平仮名はありません。
ただ、人々は、恋の歌・別れを悲しむ歌・死を悼む歌・旅の感動の歌・天皇を讃える歌などを、喜怒哀楽を込めて詠み、そしてそれを万葉仮名で書き留めました。
勅撰の歌集はこの後、平安時代の『古今和歌集』、鎌倉時代の『新古今和歌集』と引き継がれていきます。
『古今和歌集』が王朝文化の結晶であり、『新古今和歌集』がその伝統を引き継いだのに対し、『万葉集』は奈良時代以前の日本という国家の黎明期に生きた人々の「心の叫び」を集めたものと言えます。
【万葉集から古代史を読み解く】では、歌を詠んだ人物、そして詠まれた歌を通して、古代史の読み解きに挑戦します。
今回は、柿本人麻呂が、軽皇子と草壁皇子を詠んだ歌から、歴史の真実に迫っていきましょう。
柿本人麻呂が阿騎野で詠んだ短歌
旧暦の11月半ば、柿本人麻呂は、草壁皇子(くさかべのみこ)の遺児・軽皇子(かるのみこ)とともに阿騎の野(あきののの・現在の奈良県宇陀市大宇陀)を訪れます。阿騎の野(阿騎野)は、推古天皇の時代から皇室の狩猟地で、男性は猟を女性は薬狩りを楽しんだ場所でした。
人麻呂がこの時に詠んだのが、有名な以下の短歌になります。
東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(1-48)
この短歌を訳すと、「東の野に日の出前の光の立つのが見えて、後ろを振り返ってみると月は西に傾いている。」となり、その意味は、「朝早く、東の野を見ると、地平線を真っ赤に染めながら朝日が昇ろうとしている。その時、後ろを振り返って西の空を見ると、月が傾いて沈もうとしている。」となります。
では、この歌に秘められた真意は何なのでしょうか。
それは、昇りゆく「朝日」を軽皇子に、沈んでいく「月」を草壁皇子に見立てたことにあるのです。
草壁皇子の立太子と鸕野讚良の称制
草壁皇子は、天武天皇と鸕野讚良皇女(うののささらひめみこ)の間に生まれた皇子です。
鸕野讚良は、天武の兄・天智天皇の娘で、後に即位して、第41代・持統天皇になります。天武には男子として、長子高市皇子を始め、草壁・大津・舎人・長・弓削・忍壁・穂積・新田部・磯城の諸皇子。そして、女子は、十市皇女を始めとして、大伯・但馬・紀・泊瀬部・多紀の諸皇女がいたとされます。
この内、有力な皇位継承者として見なされていたのは、草壁皇子を筆頭に大津・忍壁であったようです。
『日本書紀』によると679(天武8)年、天武と鸕野讚良は、この3人に天智の皇子である河嶋・志貴の2人を加え、吉野宮に行幸し、皇位継承の争いを起こさないという盟約を結ばせています。
この2年後の681(天武11)年、草壁は立太子、天武から大権を任されました。687(持統元)年に天武が崩御すると、鸕野讚良は称制し皇后として政務をとります。
そして草壁は、天武の陵墓築造を担うことであらためて、天武の後継者として、その立場を内外に知らしめ、ここに持統・草壁という政治体制が敷かれました。
飛鳥・奈良時代においては、皇位に就くには少なくとも30歳を越えなければ、宮廷内の理解を得られませんでした。
この時、草壁は20代半ばとまだ若く、しかも健康面で不安があったとされます。持統は自らが大権を振るうことで、草壁が然るべき年齢に達するのを待ち、皇位を継承させようと考えたのでしょう。
そのためには、草壁の皇位継承の弊害を取り除かなければなりません。天武崩御直後の10月に、草壁に次ぐ皇位継承候補であった大津皇子が謀反の罪で処刑されたのは、持統による画策があったと考えて間違いないでしょう。
皇統を引継ぐための持統の即位
どうしても草壁に皇位を継承させたいという持統の願いもむなしく、689(持統3)年、草壁は28歳でその生涯を閉じました。
持統の悲しみ・嘆きは、想像を絶するものであったでしょう。しかし、持統はすぐに自分の後継者を、草壁の遺児に定めます。草壁は天智天皇の娘である阿閇皇女(あへひめみこ)との間に、男子・軽皇子、女子・氷高内親王・吉備内親王をもうけていました。
持統は、軽皇子の即位を望んだものの、まだ8歳と幼く、即位はおろか皇太子とすることもはばかられたのです。この時点で、草壁の兄弟として高市・舎人・忍壁など、皇位に適齢な皇子たちがいました。
しかし、鸕野讚良は軽皇子への皇位継承にこだわり、自らが即位して、第41代・持統天皇となります。
草壁同様に、孫の軽の成長を待って皇位を継がせるための即位であったことは間違いありません。しかし、天武亡き後に朝廷を牽引した持統の存在と政治手腕は、群臣たちを天皇として納得させるに十分であったと思われます。
人麻呂の短歌に込められた持統の思い
696(持統10)年、太政大臣として持統朝を支えていた高市皇子が逝去すると、697(文武元)年、軽皇子はわずか15歳という異例の若さで、立太子。そして、即位して文武天皇となりました。
持統はこの若い天皇を支えるため、初めて太上天皇を称し後見役につきます。
持統は703(大宝2)年に、58歳で崩御しました。天武と自分の愛息である草壁の皇統が、継続していくことを望んでの死であったでしょう。
そして4年後の、707(慶雲4)年、文武が25歳の若さで崩御すると、わずか7歳であとに残された首皇子に皇位を継がせるため、文武の母である阿陪皇女が皇位を預かる形で即位し、第43代元明天皇となります。
彼女は持統同様に、幼い首の子孫に皇統が安泰して継承されるよう尽力します。
そして、首が15歳で皇太子となってからも、その成長を待つため715(霊亀9)年、文武の姉である氷高内親王に皇位を譲り、第45代元正天皇とし、太政天皇として後見しました。
首皇子は、その5年後の724(神亀元年)に皇位を継承し、第46代の聖武天皇となります。草壁が立太子してから43年、持統が即位してから35年の年月を費やして、草壁の系統への皇位継承が盤石したものとなったのです。
柿本人麻呂の短歌には、軽皇子という未来に望みを託し、草壁皇子という過去を振り切ろうとした、持統天皇の思いが込められていたと思えてなりません。だからこそ、沈みゆく月に対して、明けやらぬ東の空を赤々と染めはじめた暁の光を見るという、張り詰めた美しさが表現されているのではないでしょうか。
※参考文献
板野博行著 『眠れないほどおもしろい 万葉集』王様文庫 2020年1月
小笠原好彦著 『検証 奈良の古代遺跡』吉川弘文館 2019年5月
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