日本と朝鮮半島との交流は、旧石器時代には始まっていたとみられている。
海を渡り日本に住み始めた日本人の祖先と、大陸に住んでいた人たちは、互いを既に認識していたのである。
そこから縄文時代、弥生時代と人々の往来があり、大陸の文明から朝鮮半島に伝わった物などが日本にも伝わってきた。
そのような中、集落から小さな国々が生まれるようになり、国としての交流が始まっていく。
日本は弥生時代後半には、邪馬台国やヤマト王権といった形で統一政権が生まれた。
朝鮮半島においても部族連合が生まれ、国へと成長し三国時代へと突入した。
日本と友好関係を築く国もあれば、敵対関係となる国もあった。
今回は、古墳時代から飛鳥時代にかけての「日本と朝鮮半島の関係性」について触れていきたい。
大和王権の成立と朝鮮半島への進出
弥生時代の日本列島は、平野部を中心に集落が形成されていた。
徐々に集落はまとまり大きくなってくると、力を持った者が長となり、統治を行うようになる。
長となったものの中から「豪族」が現れると、各地で豪族が統治する小さな国が生まれたのである。
豪族の中で近畿地区を中心に勢力を広げたのがヤマト王権であった。
ヤマト王権は豪族の連合政権であったが、その中の筆頭であった豪族は大王(オオキミ)と呼ばれていた。
後の天皇家となる一族である。
ヤマト王権は、4世紀の中頃までには西日本一帯を勢力下とした。
九州南部における熊襲(くまそ)は反抗勢力として残っていたが、ヤマト王権は西日本一帯を制した勢いから、朝鮮半島にまで勢力拡大を進めていったのである。
これには、当時朝鮮から渡ってくる渡来人が日本にはない新しい文化を持ち込んできていたことや、朝鮮半島で採れる鉄を求めたことが背景にあった。
朝鮮半島は4つの国へ
日本で豪族が生まれ始めていた頃、朝鮮半島でも同様に「部族国家」が生まれつつあった。
現在の中国遼寧省、吉林省や北朝鮮北部のエリアでは、紀元前より「高句麗(こうくり)」が誕生していたが、半島部分においては数多くの国が生まれていたのである。
現在の韓国に位置するエリアには、馬韓、辰韓、弁韓の3つの部族連合があったが、4世紀には馬韓の諸国は「百済(くだら)」によって統一され、辰韓の諸国は「新羅(しんら)」によって統一される。
南部の弁韓だけは小国家に分立したままであり、この小国家連合諸国は「伽耶(かや)」という。
日本では任那(みまな)とも呼ばれていた。
紀元前より満州東部に成立していた高句麗は、中国の統一王朝であった後漢の滅亡後、勢力を拡大させるべく南下を進めるようになる。
朝鮮半島北部の一帯を領土として広げると、中国王朝に代わり北部朝鮮を支配するようになっていった。
朝鮮半島における「三国時代」を迎えるのである。
仲哀天皇の崩御と神功皇后の朝鮮出兵伝説
当時の日本と朝鮮半島の歴史に触れたが、それぞれが力をつけていく中で、伝説を含めて最初に朝鮮半島に兵を送るのは、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の后である神功皇后(じんぐうこうごう)であった。
神功皇后 〜日本神話の中でも指折りの女傑【住吉大社祭神】
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なぜ天皇の后である神功皇后が、兵を率いて朝鮮半島に出兵したのかといえば、仲哀天皇が神託に逆らったことで命を落としたことにある。
仲哀天皇は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の子である。
先代の第13代成務天皇に子がなかったことから、成務天皇の兄である日本武尊の子・仲哀天皇が第14代として即位した。
仲哀天皇は行幸中、熊襲が背いたことで討伐を決意し、福岡に向かった。
このとき、后の神功皇后が突然神懸かりの状態となり、住吉三神から「神託」を降ろされたのである。
その神託の内容は、
「貧しい熊襲の地より、財宝に満ちた朝鮮半島の新羅を征伐せよ」
「われら三神を祀れば、熊襲も新羅も平伏する」
というものであった。
しかし仲哀天皇はこの神託を信じず、予定通り熊襲の討伐へと向かった。
神託に逆らったことにより、仲哀天皇は熊襲の兵が放った矢に当たり、命を落としてしまうのである。
神託を受けた神功皇后は、仲哀天皇が崩御したことを隠し、熊襲を制圧した。
そして、新羅を征伐するため、朝鮮に向けて出兵したのであった。
このとき神功皇后は、お腹に仲哀天皇との子(後の応神天皇)を身籠っていた。
しかし戦場で産むわけにはいかないので、お腹に石を置いて出産時期を遅らせて戦い、九州に帰還した際に出産したという伝説が残っている。
三国時代の覇権争いとヤマト王権
神功皇后の朝鮮征伐の伝説から300年近くが経った頃、朝鮮半島では三か国における勢力争いが続けられていた。
ヤマト王権に力を借りたかった百済は日本と友好関係を結んだものの、新羅や高句麗は敵対関係にあった。
第25代継体天皇の時代、大連(おおむらじ : 最高執政者)の地位にあった大伴金村(おおともの かなむら)は、高句麗によって国土の北半分を奪われた百済から任那の割譲要請を受け、任那の一部を割譲する。
これにより任那自体が弱体化したところ、540年には新羅によって残っていた任那地方の一部が併合されてしまい、562年には任那地方で残っていた大加羅の滅亡で任那は消滅し、完全な三国の時代へと突入したのである。
参考
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
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